兵藤恵昭の blog

団塊世代の特定社会保険労務士。博徒史、アウトロー中心に書いています。

浄瑠璃坂の仇討ち

武士の仇討ち事件は忠臣蔵の赤穂事件が有名である。しかし、赤穂事件の31年前に起きた「浄瑠璃坂の仇討ち」事件を知っている人は少ない。浄瑠璃坂の仇討ちは寛文12年(1672年)2月3日未明、宇都宮藩を追放、脱藩した奥平源八ら同志42名が父の仇の同藩の元藩士奥平隼人を討った仇討ち事件である。原因は、宇都宮藩の前藩主奥平忠昌の法要における、同藩の重臣間での口論である。

宇都宮藩の奥平家はもともと上野国甘楽郡奥平村(群馬県高崎市)に出目をもつと言われる。奥平家は三河設楽郡を拠点とし、天正3年(1575年)忠昌の祖父である奥平定昌が、長篠城を死守して、織田・徳川連合軍が武田勝頼を破るのに大いに貢献した。その後、信長から「信」の字をもらい「信昌」となり、家康の娘、亀姫を正室にして、徳川家の外戚となった名門である。この時から、一族の者と重臣の12の家が家康から永代拝謁を許され、これらの家が交代で家老職を勤めた。7族5老の重臣名家と言われている。奥平信昌の子、家昌は宇都宮の城主になり、その子、忠昌が後を継いで宇都宮藩11万石城主となった。

事件の発端となったのは、寛文8年(1668年)3月2日下野興禅寺(宇都宮市)で行われる忠昌の葬式の前日3月1日に起こった。7族5老のうち母同士が姉妹のいとこ同士の2家の一つである奥平隼人は亡君の位牌を目にして、「玄光院殿海印」まで読んだ所で言葉に詰まってしまった。これを見たいとこの奥平内蔵允が「道湛大居士」でござると助け船を出したが、この声が大きく、結果的に隼人が無学の恥を藩士の前で晒すこととなってしまった。この恥を消すため、隼人が「内蔵允殿は僧の方が似合ってござる、流石は坊主勝り」と言ったことから、普段より犬猿の仲で、今までの不満が爆発、堪忍袋の緒が切れた内蔵允が隼人に脇差を抜いて斬りかかった。しかし、隼人は武断派、内蔵允は文治派で、隼人の方が武道に勝り、反対に内蔵允が返り討ちにあい、内蔵允は傷を負った。

亡君の大切な法要で怪我人を出すことは藩の重大な不祥事である。しかし、前藩主忠昌の後を継いだ昌能は、前藩主忠昌がなくなった時、藩内で殉死者を出し、幕府禁令に違反、蟄居中で、藩の存続が危ぶまれる状況であったため、不祥事の沙汰が先延ばしとなった。その沙汰が下る前に内蔵允は、事件の際に受けた傷がもとで破傷風となり、死亡してしまった。やがて忠昌の子の昌能は、幕府より宇都宮藩は召し上げで、代わりに山形へ転封との形で跡目相続が認められた。

事件から半年後の9月2日、藩主昌能より不祥事について「奥平隼人は改易、奥平内蔵允の息子・源八(12歳)と内蔵允のいとこの奥平伝蔵の両名は家禄没収のうえ藩より追放」の沙汰が下りた。納得がいかないのは源八である。父は死亡しているのに、相手の隼人はのうのうと生きている。この判定は喧嘩両成敗からはずれ本来なら、隼人は切腹となるべきであり、不公平であると主張して、隼人を敵として狙うこととした。この仇討ちに賛成したのが奥平伝蔵と源八の叔父・夏目外記ら一族郎党40余名である。源八方は即日、藩を追放されたのに対して、隼人親子は藩より物々しい護衛をつけて送り出されて、江戸旗本の屋敷に身を寄せた。源八の仇討ち行動を知った隼人の方も父・奥平半斎、弟・主馬允と一族の九兵衛らが徒党を組んだ。

源八ら一党は手始めに、追放処分を受けず、山形の奥平昌能藩に留まっていた隼人の弟・奥平主馬允を山形上山で待ち伏せ、襲撃して、討ち取った。事件から1年後、寛文9年(1669年)7月3日である。主馬允方は16名、源八方は15名双方で30名余りの戦いであった。待ち伏せして攻撃する方が有利であり、源八側は怪我人は6名出たものの、死亡者はいなかった。一方、主馬允側の死亡者は主馬允を始め、家来含めて7名であり、残りは逃げ去っている。一方的な源八側の勝利である。この襲撃事件は「思川の決闘」と呼ばれ、山形県上山市に思川歴史保存会によって「史跡・思川決闘の場」として現在も残っている。

この襲撃事件の後、隼人親子は源八一党からの襲撃を不安視し、隼人親子は江戸市内の居所を転々として変更した。源八一党が探索するも一向に居所を探し出すことができなかった。寛文11年秋になって、やっと2年かがりで隼人親子の居所を見つけた。それが江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の上にある鷹匠頭・戸田七之助の屋敷である。当時、源八一党は下野黒羽の深沢村を本拠地を定めて、江戸にいる隼人親子襲撃の準備をしていた。江戸には仲間を潜入させ、戸田七之助屋敷内に必ず隼人親子二人がいる日時を探らせ、屋敷近くで商いをしながら監視する態勢を取っていた。

寛文12年(1672年)1月29日江戸の仲間よりの知らせが深川村に来て、討ち入りの日時が決定した。深川村にいた28名は直ちに船で鬼怒川経由で利根川を下り、江戸へ出発した。当時、利根川から江戸川を経由して隅田川日本橋近くまで水路があった。陸路よりずっと早く江戸に到着することができる。寛文12年2月3日の未明、浅草駒形に船をつけた源八一党は江戸の仲間たちと合流した。総勢42名である。武器、道具は江戸の仲間が準備し、馬、乗り物で市ヶ谷の戸田七之助の屋敷に向かった。途中、水道橋の水戸藩屋敷前で長持ちから門を破る道具、ガンドウ提灯を用意し、浄瑠璃坂の隼人屋敷に到着したのは午前5時頃の明け方、まだ暗かった。

源八ら一党は屋敷の門を破り、松明をかかげて戸田七之助屋敷に討ち入った。屋敷内の相手方10数人を斬り、終始優勢に攻撃をして、隼人の父・半斎を討ち果たしたが、隼人は見つけることができなかった。已む得ず仇討ちを断念して、一党が、屋敷を引き上げて牛込御門前牛込土橋まで来たところ、隼人らが手勢を連れて追ってきた。源八らは取って返し、隼人らと対決、隼人を討ちとった。隼人側の死亡者は隼人を含め3人であった。源八側は、重傷者のうち2名が討ち入り後に死亡している。これが世に言う浄瑠璃坂の仇討ちである。

源八ら一党は、幕府目付に出頭して裁きを委ねた。徳川家綱幕府は武士の私闘を許さず、奥平源八、夏目外記、奥平伝蔵の3名に死罪を求めた。しかし、大老井伊直澄の支援、口添えにより、死一等を減じ、伊豆大島への流罪に決定した。そして流罪から6年後、千姫13回忌追善法要による恩赦によって赦免された源八ら3名は、こののち彦根藩井伊家に召し抱えられた。

この仇討ちは、30年後に起こる赤穂浪士の事件にも影響し、火事装束に身を包む方法など大いに参考にされたと言われる。鎌倉時代より喧嘩両成敗は武士の不文律である。不合理かもしれないが、仇討ちを止め、最も合理的な判定とされていた。戦国時代分国法の「今川かな目録」にも次のように規定されている。
1.喧嘩した者は善悪を問わず、両者とも死罪。
2.相手が攻撃しても応戦せず負傷した場合は、被害者に原因があっても被害者の勝訴とする。
戦国時代から名誉、怨みは個人のものでなく、所属する組織に対するものとの考え方が強かった。個人主義の現代では理解しにくいかもしれない。


写真は現在の
浄瑠璃坂である。この坂の上に戸田七之助屋敷があった。

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