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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

次郎長の兄貴分博徒・津向文吉という人

津向文吉は、駆け出しの頃の次郎長が喧嘩の仲裁をした相手方で、それを機会に次郎長の兄貴分となった博徒である。文吉は、温厚な性格で、男盛りの39歳で、八丈島に島流しになったため、あまり知られていない博徒である。しかし、細面で品のある二枚目の色男である。長年の流刑暮らしの結果、主たる抗争もなく、長寿を全うし、畳の上で生涯を終えた幸運な博徒でもある。
 
博徒名) 津向文吉    (本名)宮沢文吉
(生没年) 文化7年(1810年)~明治16年(1883年)  享年73歳
 
津向文吉は甲斐国鴨狩津向村(現・山梨県西八代郡市川三郷町)に生まれた。生家は代々村名主を務める宮沢家である。鴨狩津向村は甲斐と駿河を結ぶ富士川船運の物流拠点である。近くには竹居安五郎(通称吃安)の活動拠点である竹居村(笛吹村)があり、安五郎とは長い間縄張り争いの抗争を繰り広げた。
 
弘化2年(1845年)、甲州鰍沢で竹居安五郎との抗争があり、文吉は甲州博徒祐天仙之助と組んで、安五郎の食客で武士の桑原雷助を殺害した。また同じ年には駿河博徒・次郎長の叔父にあたる和田島太右衛門との間で出入りがあり、子分10人を引き連れて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出向いている。ところがこれが博徒・三馬政の計略であると知らされ、まだ当時駆け出しの次郎長の調停により、出入りは回避された。文吉はこれを機会に次郎長との関係を深め、兄弟分となった。
 
嘉永2年(1849年)の博徒取締により、文吉は捕縛され、流刑が決定する。同年4月から9月まで三宅島に逗留して、9月からは八丈島の末吉村に流された。その後、明治2年(1869年)の恩赦まで20年間を八丈島で流人として暮らした。八丈島では島の娘との間に男女二人の子供が生まれている。
 
津向文吉が八丈島に流刑となった2年後に、長年の抗争相手であった竹居安五郎も賭博の罪で流刑が決定する。安五郎の兄弟分である大場久八は、昔から懇意である韮山代官の江川太郎左衛門を通じて、安五郎の流刑先を八丈島から変更を依頼した。江川は、抗争博徒が同じ流刑地では色々治安上問題があるという理由をつけ、安五郎の流刑地は新島に変更された。もし、遠い八丈島からの流刑地変更がなければ、安五郎の新島からの島抜けは成功しなかっただろう。
 
文吉は、明治の恩赦後、本土に戻ると、すぐに清水次郎長のもとを訪れ、帰国の報告をしている。その後は、生地の鴨狩津向村で木賃宿の「つむぎ屋」を営む一方、八丈島で覚えた医者まがいのことをしながら余生を送ったという。
 
文吉は明治16年(1883年)10月5日73歳で死去した。市川三郷町の共同墓地に文吉の墓があり、大正10年(1921年)9月建立で、建立者は宮沢姓の二名の人物の名が記されている。文吉の墓に隣接して子分・飯窪定五郎の墓もある。文吉の戒名は「普顕院英山文雄居士」である。

喧嘩しない大親分博徒・蕎麦亀という人

博徒というと国定忠治、黒駒勝蔵、清水次郎長などの名しか思いつかない人がほとんどだろう。しかし、世間的に名も知られていないが、博徒として歴史に名を残しても良い博徒がいる。歴史的有名人だけが優れているのではない。無名でも優れた博徒がいる。特に博徒は喧嘩を華とするため、抗争、喧嘩をしない博徒は歴史に残らず、忘れ去られることが多い。
 
そんな博徒の一人として、喧嘩をしないことを信条とし、大親分となった博徒・伊野亀吉がいる。この博徒については、増田知哉氏著書「侠客・博奕打ち物語」に記載されている。亀吉は、八王子、三多摩地区一帯を縄張りとする博徒で、江戸、甲州、伊豆、上州まで名を知られた博徒である。
 
博徒名) 通称・蕎麦亀   (本名) 伊野亀吉
(生没年) 天保7年(1838年)~明治32年(1899年)
       享年64歳で病死。
 
伊野亀吉は初め、甲州一の宮万兵平の子分となり、博徒の道に入る。亀吉25歳のとき、親分万平が死亡してからは、伊豆の大場久八の身内となった。明治になって大場久八も博徒から足を洗ったため、故郷の八王子に戻り、蕎麦屋を営む傍ら博徒稼業をして、徐々に子分たちも増えた。亀吉は腰の低い温和な親分で、いつもニコニコし、乞食が来ても「旦那」と呼んだという。
 
亀吉が言うには、「喧嘩などするとはどうしたことか、喧嘩して勝ったところで、殺してみたところで、それでどうなるわけではない。甲州近くのこの辺りは気の荒い所で、喧嘩が多いが、喧嘩にならぬように捌いてゆく。喧嘩すれば、逃亡とか、土地を失うことにもなる。喧嘩すれば仇にされるが、仇は博奕場にされる。なんの得にもならず、そんなことではいけない。」と言っていた。その証拠に亀吉の身体には喧嘩傷一つとしてなかったという。
 
亀吉も60歳近くになり、跡目を「曲七」に譲った。「曲七」の本名は内田七太郎と言い、本業が曲物屋だったところから曲七と呼ばれた。一方、亀吉は蕎麦屋を営み、晩年、「蕎麦屋の爺さん」と呼ばれた。ここの蕎麦の盛り一杯はよその二杯分あり、繁盛し、職人の給料もよそより高かった。
 
この爺さんがあるとき、曲七の所に立ち寄った。親分の曲七は留守で子分だけしか居なかった。子分たちが仲間内で博奕をやっていたので、久しぶりにやってみたいと言うと、子分たちが「どうぞ爺さん胴を取ってください。」と言われ、少し眼が悪いがやってみようとサイコロを振った。筒の外にサイコロが出ている。子分たちは「眼が悪いので気が付かないのだ」と思い、出た目に張る。これなら誰でも儲かると平気で続けた。そのうち爺さんが博奕で張った金を掻き集めて、ネンネコにくるんだ。子分たちが、「勝負しないで持って行かれては困ります。」と言うと、爺さんは、「この馬鹿野郎、俺が眼が見えないと思っているのか、そんな根性でどうなる。金は俺が持って行く。曲七が帰ったら、早速、盃を返せと言っておけ。」といって帰った。
 
驚いた子分たちは平岡という親分の兄貴分に、親分に知れないように爺さんに詫びを入れるように頼んだ。平岡の兄貴分が爺さんのところに行って、「あいつらが心違いしたそうです。このことを曲七に言っておやりになれば、大変なことになります。今度だけは勘弁してやっておくんなさい。」と言った。爺さんは、「それはぜひ止して貰いたい。あんな性根のない奴らなら、商売をするなり、かえって真人間になれる見込みがある。今、そういう手紙を書かして、曲七の所に出したところだ。」と言う。
 
「侠客・博奕打ちの物語」を書いた増田氏は、蕎麦屋の爺さんと言われた博徒・亀吉のことを、「遊侠の世界での残照の中で、博奕打ちの親分として、貴重な存在であり、博徒として相当な人物だったといってよかろう。」と記している。亀吉が居た三多摩地区には、幕末・明治期にかけて名を残した博徒がいた。最も有名なのは小金井小次郎である。スケールは小次郎に及ばないが、もう一人は小川村(現・小平市)にいた小川幸蔵である。二人とも歴史に残る博徒である。他方、亀吉は名は知られていないが、この二人の博徒に勝るとも劣らない博徒と言えるのではないだろうか。

賊軍旧幕兵士戦死者を埋葬した博徒たち

明治維新で賊軍幕府側戦死者の遺体収容の行動を取った博徒は少なくとも4人いた。
 
  中でも最も有名なのが威臨丸の清水次郎長である。新政府に反旗を翻した旧幕府海軍榎本艦隊威臨丸が台風に遭遇、破損して駿府藩の外港清水に緊急避難した。艦長小林文次郎は駿府藩に恭順の意を表し、兵士と武器を陸揚げし、停泊中の艦内は副長春山弁蔵、弟鉱平兄弟以下少数の水夫が残っていた。明治元年(1868年)9月18日、そこに新政府軍の富士丸、飛龍、武蔵の三艦が来航し攻撃、春山兄弟以下20余名が殺害され、清水港に投げ捨てられた。
 
次郎長は、夜に紛れて港内をさらい、春山兄弟ら7死体を収容して、新開地向島の古松の下に埋葬した。これが後に山岡鉄舟が揮毫した有名な壮士墓である。この顛末は、東海遊侠伝の著者・天田愚庵自身が戊辰戦争で敗残した経歴から次郎長の侠客の義挙として誇り高く語られている。
 
  二番目の博徒が鳥羽伏見の戦いにおける京都の会津小鉄である。威臨丸事件の半年前、慶応4年(1968年)正月3日に勃発した鳥羽・伏見戦は、幕府歩兵・会津藩兵・新選組等1万5千人の勢力が、三分の一に満たない薩長軍に大敗を喫して終わった。博徒会津小鉄もこの戦闘に人足・子分500名を動員したと言われる。小鉄は、この戦いで放置されたままにされていた幕府軍の戦死者の遺体を収容し丁重に埋葬した。
 
当初、小鉄から遺体収容を命じられた子分たちは、戦闘直後の殺気立った状況と勝手な収容が禁止されている中での作業に尻込みをした。小鉄一家代貸・いろはの幸太郎は、一計を図り、遺体収容に合わせて、道路に散乱した障害物除去、道路整備をすることで、官軍から咎められないようにしたのである。最終的に118体が黒谷光明院に運ばれ、山崎付近の100体が荼毘されて大阪一心寺に葬られた。
 
戦死者の遺品は、官軍占領の会津若松に小鉄が単身で乗り込み引き渡した。この帰途、小鉄は5歳の戦災孤児を連れてきた。この子が成長して、二代目・いろはの幸太郎に仕えた会津の弥吉となる。その後、旧会津藩出身者で組織された会津会により、昭和32年12月15日、黒谷西雲院で会津藩殉難者慰霊法要が実施された。
 
 三人目の博徒は、函館五稜郭戦争で放棄された賊軍兵士を埋葬、慰霊碑を建てた函館の博徒・柳川熊吉である。函館攻防戦の戦死者の数は不明だが、とにかく見せしめのために、旧幕諸隊の遺体は放置された。遺体に触れれば、旧幕脱走軍に内通する者とみなされ、官軍に処罰された。
 
この惨状に立ち上がったのが博徒・柳川熊吉である。熊吉は、遺体引受け先を昔よりの知り合いである日蓮宗実行寺住職・日隆の協力を取り付け、子分600人を動員して、遺体を一夜のうちに収容した。その後、市中の三つの寺に埋葬した。その数は、浄玄寺107名、実行寺94名、願乗寺54名、称名寺3名、合計258名と言われている。当時、旧幕軍の戦死者数は正確に把握されていない。一方、新政府軍の戦死者数は正確に把握されている。陸軍155名、海軍68名、合計223名である。
 
戦争終了後、旧幕軍の遺体処理の探索が行われ、熊吉は捕縛され、軍法会議によって死刑が宣告される。斬首刑実行の寸前に、薩摩出身の軍監田島圭蔵の介入により、熊吉はかろうじて罪一等を減じられた。熊吉の経歴は明らかではないが、江戸生まれで、嘉永年間に函館に移り住み、函館奉行の堀織部正が五稜郭築城の際、子分とともに工事に参加した言われている。
 
後年、旧幕軍戦死者796名が、函館八幡宮の東、函館山の中腹に合祀され、7回忌の時に墓碑「碧血碑」が建てられた。熊吉は、晩年、この墓碑「碧血碑」の整備管理して暮らし、大正2年(1913年)12月7日、88歳で死去、墓は実行寺にある。戒名・典松院性真日樹居士である。
 
 四人目の博徒は江戸の三河屋幸三郎である。幸三郎は八丈島流人の子である。父親の与兵衛がが赦免され、江戸に戻ったのちに、父親に引き取られ、江戸で丁稚奉公をしていた。しかし、継母と会わず、家出して博徒になった。その後、博徒の一方で、人足宿と雑貨商も営業していたらしい。
 
慶応4年(1868年)5月15日、新政府軍大村益次郎指揮により、上野彰義隊に対する総攻撃が開始された。彰義隊は一日にて総崩れし敗走する。上野の山には彰義隊の戦死者が累々と放置され、暑さと雨により腐りだし、悲惨を極めていた。
 
この惨状を見かねたのが、神田旅籠町の人足宿「三幸」こと三河屋幸三郎という博徒である。幸三郎は、三ノ輪の円通寺住職・仏麿と相談し、隊士の遺体を収容して、すべて埋葬処理した。そのとき「死んだら仏だ。敵も味方もねえ。」の啖呵を切ったという。次郎長と同じである。しかし、次郎長が収容したのはわずか7名に対して、幸三郎の収容遺体は183体、しかもその遺体は、一寸四角くらいにバラバラに斬ってあったりして、悲惨極まるものであった。そのとき、幸三郎は40歳近く、男盛りの侠客であった。
 
幸三郎は、もともと吃音の障害があり、小柄で風采はあまり上がらなかったが、人望が厚く、明治25年(1892年)1月24日、肺炎にかかり、67歳で死去した。会葬者は数千人に及んだという。戒名は良忠院賢明義雄居士である。

次郎長より有名な博徒・森石松という人

森石松というと東映映画30石船の「寿司食いねえ」の中村錦之助を思い出す。片目でドモリのおっちょこちょいのやくざという印象である。清水一家では一番有名な子分である。しかしその実像は謎が多い。存在そのものが架空という人もいる。清水一家での活動期間は短いが、存在は間違いない。明治になって次郎長が監獄出所後の晩年、次郎長に面談した人が石松のことを聞いた時、次郎長は涙したと語っている。しかし、石松に関する資料は少なく、その実像は謎のままである。
 
博徒名) 森石松
(生没年) 生年月日不詳~万延元年(1860年)6月1日
       都田吉兵衛、常吉、梅吉、三兄弟により殺害され死亡
 
森石松は三州半原村堀切(現・愛知県新城市富岡)の百姓の子として生まれ、母が死亡後、自宅が火災となったため、父親は石松を連れて、遠州森町村(現・静岡県周智郡森町)に炭焼きの出稼ぎに移転した。
 
石松はその森町で地元博徒・森五郎と知り合い、博徒の道に入る。その後、上州に流れて、喧嘩で常五郎なる博徒を殺害したため、清水に逃亡、ここで次郎長の子分になったと言われている。石松は次郎長一家としては初期の子分である。大きな喧嘩は、安政6年(1859年)、次郎長、大政、石松、八五郎の4人で、知多大野・乙川で保下田久六を待ち伏せ、襲撃した抗争のみである。
 
次郎長は、保下田久六を斬った刀を四国金刀比羅宮に奉納代参の役目を石松に託した。無事奉納代参の役目を果たした帰途、近江草津博徒幸山鎌太郎親分に名古屋で客死した次郎長女房お蝶への香典金25両を託される。石松は遠州中郡の常吉を訪れたところで、長兄吉兵衛、梅吉、常吉の三兄弟に25両を狙われ、博打に誘われ、だまし討ちにあう。
 
長兄吉兵衛は次郎長の久六殺害を怨みとする丹波屋伝兵衛に繋がる博徒である。石松は久六を殺害した4人のひとりである。石松を殺して次郎長に一矢報いようと、久六の子分浜松在布橋の兼吉に連絡して、石松を待ち伏せ、惨殺する。吉兵衛は石松の首を斬りおとし、兼吉に久六親分の墓に供えるように言ったところ、「切歯針張目」怨みを含んで今にも食ってかかりそうな石松の形相に恐れを生じ、石松の髪を断ってこれに代えたという。万延元年6月1日のことである。
 
石松の横死は博徒間の力関係を微妙に変えた。次郎長の盟友江尻の大熊は吉兵衛との兄弟分の杯を返上した。思わぬ反発に吉兵衛は関東の博徒巳之助を介して石塔料50両で手を打ってほしいと持ち掛けた。しかし、次郎長は、俺を子分の命を金で売る親分にするつもりかと烈火のごとく怒って巳之助を追い返した。
 
次郎長一家の吉兵衛追及が強まる中、吉兵衛は大場久八の子分の武闘派の赤鬼の金平に窮状を訴えた。9月16日の夜、金平・吉兵衛連合軍は先手を打って、次郎長の本拠地を襲撃する。当日、次郎長は病気で実父宅で療養中で、本宅はもぬけのカラ、策略と勘違いした吉兵衛らは引き揚げた。その後、吉兵衛は、次郎長一家が河豚にあたり、戦力が低下した噂を聞き、再度次郎長襲撃のため江尻宿に子分9人で集結した。事前に察知した次郎長は逆に大政、小政ら7人で酒盛りの吉兵衛を逆襲して殺害、両腕を切り取り、石松の墓に供えた。これが東海遊侠伝が語る石松仇討ちの顛末である。
 
石松の墓は、静岡県周智郡森町にある大洞院の墓が有名である。しかし、もう一つ石松の生家(愛知県新城市富岡)の近くの墓もある。石松が斬殺されたとき、石松の弟が密かに石松の首を持ち帰り、ここに埋めたと言われている。墓は刻字もなく、石が置かれているだけである。
 
(参考) 東三河を歩こう 石松の墓
(参考) 東三河を歩こう 石松の生家跡
 
写真は石松の墓 愛知県新城市富岡 洞雲寺近くにある。

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悪者博徒の代表・飯岡助五郎という人

飯岡助五郎は天保水滸伝では悪者博徒の代表である。子供の頃、見た映画では、配役は笹川繁蔵を高田浩吉、平手造酒が鶴田浩二で、非常に恰好良く、飯岡助五郎は近衛十四郎であり、いかにも憎たらしかったことを覚えている。助五郎は関東取締出役の目明しの二足草鞋の博徒であり、繁蔵の縄張りを狙い、お上を後ろ盾としたため、判官びいきの世間に嫌われる博徒だったのだろう。
 
博徒名) 飯岡助五郎   (本名) 石渡助五郎
(生没年) 寛政4年(1792年)~安政6年(1859年) 享年67歳 病死。
 
飯岡助五郎は、寛政4年、相模国公郷村山崎(現・神奈川県横須賀市三春町)で半農半漁の石渡助右衛門の長男として生まれる。15歳のとき、江戸相撲友綱部屋の親方に見いだされて、名主・永島庄兵衛と相談の上、村の人別帖から抹消、無宿となって相撲部屋に入門する。しかし、入門後1年も経たずに親方・友綱良助の急死により、力士になることを断念した。すでに無宿身分であったため、九十九里浜に流れて、上総国作田浜の網元・文五郎の漁夫となる。網元・文五郎の死亡後は、下総国飯岡(現・千葉県旭市飯岡)へ地引網の出稼ぎに出る。そこで相撲時代の大力で地元ヤクザを叩きのめして名前を売り、銚子から飯岡まで勢力を張る地元博徒・五郎蔵の代貸となる。助五郎30歳のとき、五郎蔵から飯岡一帯の縄張りを譲り受け、正業である飯岡の網元の事業も成功して、名実とも房総半島での博徒の大親分になった。
 
その頃、利根川流域の笹川では、助五郎より15歳年下の笹川繁蔵が勢力を拡大していた。当初、助五郎と繁蔵は同じ相撲出身でもあり、関係は良好だった。しかし、助五郎が関東取締出役の道案内の岡っ引きとなり、二足草鞋を履くと、両者間の関係は険悪になり、子分同志の抗争も頻発した。天保15年(1844年)、助五郎に関東取締出役から繁蔵捕縛の命令が下る。同年8月6日、助五郎は20数人で繁蔵襲撃に向かったが、事前に察知した繁蔵側の奇襲反撃に会い、笹川側の死者は用心棒平手造酒の唯ひとりに対して、飯岡側は半数を失う大敗北となり、助五郎は、面目を失った幕府から入牢という屈辱を味わう。
 
一方、繁蔵は、捕縛を逃れるため、奥州へ逃亡していたが、3年後の弘化4年7月4日に故郷に戻ったところを、助五郎の子分・堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田甚蔵の3名に闇討ち、殺害された。親分を殺された繁蔵の子分の勢力富五郎は、飯岡一家に復讐を図る。しかし、嘉永2年(1849年)、勢力富五郎は、助五郎一家の後ろ盾でもある関東取締出役に追い詰められて、東庄の金毘羅山で52日間、役人たちと抗争したのち、自殺した。翌年に一連の騒動が、江戸で宝井琴凌によって嘉永版「天保水滸伝」として評判になった。丁度そのとき、飯岡助五郎が58歳の時である。
 
それから9年後の67歳で、飯岡助五郎は病死する。晩年の助五郎は、近所の子供たちから「川端のおじいさん」と呼ばれ、慕われる好々爺だったという。助五郎が後世まで悪者博徒の汚名を着るのは笹川繁蔵を闇討ちしたことにある。1978年発行、ふるさと文庫「飯岡助五郎・真説・天保水滸伝」の著者・伊藤實氏によれば、暗殺事件については助五郎は知らぬことであり、子分が、勝手に実行した後に繁蔵の首級を助五郎に届けた。驚いた助五郎は、繁蔵一家の報復を恐れ、飯岡の定慶寺に繁蔵の首を、秘密裏に葬り、死ぬまで香華を絶やさなかったという。
 
写真は飯岡助五郎の墓。戒名・「発信院釈断流居士」。千葉県旭市飯岡 光台寺にある。

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次郎長のお目付け役博徒・安東文吉という人

安東文吉は駿河国府中(現・静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の博徒である。別名「暗闇の代官」「日本一の首つなぎ親分」と呼ばれ、その評価はさまざまである。

(博徒名) 安東文吉   (本名) 西谷文吉
(生没年) 文化5年(1808年)~明治4年(1871年) 享年64歳
      府中の自宅で病死

安東文吉は駿河国安倍郡安東村(現・静岡市葵区)の豪農である西谷甲右衛門の子として生まれる。大柄で力もあるため、弟の辰五郎とともに江戸相撲清見潟部屋に入門したが、途中で力士を弟辰五郎ともにあきらめ故郷に戻った。故郷に戻った兄弟はそろって博打打ちの仲間に入り、自ら無宿となった。その後、問屋場人足相手に博打を打つ間に、博徒仲間の借金のもつれから、地元博徒の炭彦親分と斬り合い事件を起こす。この事件以降、度胸の良さから、子分も集まり、勢力を拡大し、地元博徒の顔役となっていった。

当時の甲州遠州博徒勢力拡大から、治安維持に苦慮した駿河代官は、文吉、辰五郎兄弟に十手縄を預け、代官の手引きの二足の草鞋を履かせ、博徒の騒乱を抑え、治安維持安定を図った。同時に文吉は、箱根関所と新居関所の公用手形の交付権限を与えられ、富士川と大井川の間の区域で大きな権力を持つようになる。文吉は二足草鞋を履くようになってからは、賭場はすべて子分に任し、自らは博打をしなかったという。

文吉は次郎長より12歳年上で、次郎長が若い頃、サイコロ博打でイカサマをしたとき、文吉の子分に捕まったが、次郎長は文吉に命を助けられている。以後、次郎長は事件を起こし、三州、尾張方面へ逃亡する際も、文吉に迷惑をかけないように、常に清水港から久能山街道の海岸を通り、府中内の東海道を避け、掛川宿から東海道に戻るコースを使用したと言われている。次郎長が保下田久六を殺害して、大場久八と敵対した際も次郎長を庇い、上州一派との和解に努めている。それゆえに「博徒は木綿を着て絹を着るな。素人衆には道を譲れ。街中では駕籠にに乗るな。」等の清水一家の規律は文吉ゆずりといわれる。

文吉は、「好んで兇状持ちになる者はいない。」と言って、兇状持ちの博徒に関所通行手形を交付し、その逃亡を助けたことも多々あった。そのため博徒仲間では、「日本一首つなぎ親分」の別名がある。

一方で、遠州の国領屋亀吉は、幕末のやくざ社会の様子を尋ねられた際に、「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越喜左衛門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・・みんないい顔だったよ。」と名を挙げているが、「文吉さんはどうでしたか?」と聞かれた際には、土地の方言を使って、「あの人はオッカネエー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を恐れたという。別名「暗闇の代官」と呼ばれた意味もわかるような気がする。明治4年4月8日、府中の自宅で死去。64歳。

写真は安東文吉の墓。戒名「心善院法山日櫻居士」静岡市駿河区池田 本覚寺にある。

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品川台場建設に貢献した博徒・大場久八という人

大場久八は、韮山代官江川太郎左衛門の要請により、兄弟分である甲州豪商天野海蔵とともに、品川台場建設に協力した博徒として有名である。

博徒名) 大場久八  (本名) 森久治郎
(生没年) 文化11年(1814年)~明治25年(1892年)  享年79歳
      上州への旅の途中、現・都留市谷村において中風で死亡

大場久八は伊豆国田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれた。28歳のとき野天博打で無宿となり、博徒となる。その頃、甲州博徒武居吃安、甲州豪商天野海蔵と兄弟分になる。その後、伊豆に戻り、結婚するが、妻・志津の弟が、東海道随一の貸元と言われた丹波屋伝兵衛である。

35歳のとき、兄弟分の桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎・石原村幸次郎と遠江国岡田村(現・磐田市)で決闘し、両名に深手を負わせた。またその頃、上州博徒大前田英五郎の暗殺を謀った御宿の惣蔵を殺害し、英五郎と兄弟分となった。

大場久八の勢力圏は駿河、伊豆、甲州武州、相州の5カ国に及び、子分3,000人以上、当時の三大博徒である、上州の大前田英五郎、伊勢の丹波屋伝兵衛と並ぶ博徒の一人である。台場建設の貢献で、韮山代官江川から支配地の御用・二足草鞋の要請もあったが、「骨が舎利になっても二足の草鞋は履かない。常に人の下に立つ」の信念でこの申し出を拒絶している。

日常の食事・服装は質素を重んじ、食事は常に一食一菜、服は木綿着で生涯を通した。これを聞いた武州博徒・小金井小次郎が村山織二反を送り届けたが、ありがたく受領しただけで一向に着ることはなかった。慶応4年には武州甲州の子分30人からなる「辰巳隊」を編成し、新撰組近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊に加わったという。当初「辰巳隊」は食糧運搬任務の後方部隊だったが、本隊の相次ぐ脱走に伴って、戦闘にも参加することとなった。これは関係の深い韮山代官江川英龍の秘蔵子の松岡磐吉との関係があったためと言われている。

甲陽鎮撫隊の大敗ののち明治以後、久八は跡目を三島の玉屋佐十郎に譲り、博徒の足を洗い、百姓として余生を暮らす。明治25年12月3日、上州への旅の途中、山梨県南都留郡谷村町の旅籠で中風で倒れ、死亡した。久八は反次郎長派の博徒である。次郎長が保下田の久六を殺害した際、久八は富士宮に子分を集め、次郎長に敵対した。次郎長は大政、八五郎の3人で富士宮に向かい、面談を申し込むが拒絶され、理論家の大政のみが面談して久六を説得したという。その意味でも、久六は侠客の流れにある博徒というのは言いすぎであろうか。

下の写真は大場久八の墓。田方郡函南町間宮 広渡寺にある。
戒名「信禮院義誉智仁徳善居士」である。

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悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵という人

黒駒勝蔵は、清水次郎長の敵役として有名で、その生涯は喧嘩に明け暮れ、最後には官軍の兵士でありながら、博徒の罪で処刑された謎多き運命をたどった博徒である。

博徒名)黒駒勝蔵  (本名)小池勝蔵
(生没年)天保3年(1832年)~明治4年(1871年)  享年40歳
      斬罪により処刑

黒駒勝蔵は、天保3年、上黒駒村(現・山梨県笛吹市)で村役人を務めた家である小池嘉兵衛の息子として生まれた。安政3年25歳のとき、勝蔵は親元を飛び出し、中村甚兵衛(竹居安五郎通称「吃安」の兄)の子分となり、博徒となる。勝蔵が博徒になった2年前に、竹居安五郎吃安は、新島からの島抜けに成功して、甲州に戻り、潜んでいた。安政5年、石和代官森田岡太郎が他国に移動となり、吃安の追及の手が緩んだ頃、勝蔵は吃安と手を組んで勢力を伸ばし始めた。

当時の甲州の有力博徒は、甲府柳町の三井卯吉を頭とする甲府元柳町の祐天仙之助・甲斐国八代郡国分村の国分三蔵一派、駿河国御殿場村の御殿伝蔵・上野国館林藩浪人の犬上郡次郎らがいた。彼らは代官目明し等の二足草鞋を履く博徒であった。吃安と勝蔵は、これらの有力博徒と抗争する形で勢力を伸ばしていった。その後、仙之助、三蔵、郡次郎らの計略により、竹居吃安が捕縛され獄死したことを聞いた勝蔵は、三蔵ら一派に襲撃を企て、郡次郎の殺害に成功する。その後、兇状持ちとなった勝蔵は甲州を逃亡し、三州、尾張各地を転々としながら、国分三蔵と同盟関係にある清水次郎長との対立を深めていった。

荒神山の喧嘩以後、勝蔵は大坂に潜伏し、途中の経過は不明ながら、慶応4年1月に勝蔵は、元々勤皇思想の上黒駒村の檜峰神社神主・武藤藤太と親交があり、美濃博徒・水野弥太郎の案内により、小宮山勝蔵の名で赤報隊に入隊する。加納宿に現れた勝蔵らの赤報隊は、悪い評判により、官軍から帰京命令が発せられ、解隊を命じられる。京に戻った勝蔵は、駿府鎮撫総督となった四条隆謌に預けられ、四条隆謌に随行する徴兵七番隊に編入され、明治元年5月、京都を出発、東海道を下った。彼ら部隊が清水を通過するとき、勝蔵は、駿府町を統治した伏谷如水に対し、次郎長をさらし首にすることを要求した。次郎長は、旧幕府の勝蔵探索書を根拠に、勝蔵の捕縛を訴え出た。ここでも形を変えて双方は対立したのである。

徴兵七番隊に属した勝蔵は、池田勝馬と名を変え、戊辰戦争に従軍、東北地方を転戦する。戊辰戦争終了後、東京に凱旋した同隊は、第一遊軍隊に改称した。引き続き同隊に所属する勝蔵は、甲州黒川金山開発を明治政府に願い出、休暇許可も取得して甲斐国に戻る。だが、休暇期限を切れても、彼はそのまま甲州に滞在し、伊豆蓮台寺温泉へ湯冶に行く。これが無断脱退の嫌疑を受ける理由となる。

明治4年1月25日、勝蔵は、「池田勝馬」としてでなく、「無宿黒駒勝蔵」として、伊豆国畑毛村(現・静岡県田方郡)で捕縛され、2月3日、連行され甲府で入牢、同年10月14日、斬刑に処される。

黒駒勝蔵は、講談や芝居で、次郎長の悪者敵役のイメージが強く、勤皇博徒の名は知られていない。しかし、勝蔵は根からの勤皇主義者でもなく、反幕府思想の持ち主でもない。権力に対しての反逆に共鳴する侠客ではなかったか?その意味で、黒駒党と名指しされた博徒三州雲風亀吉や美濃博徒水野弥三郎が草莽の志士として、波乱の生涯を終えた博徒らと共通するものがある。それに対して時代を泳ぎ切った次郎長との違いは十分確認しておく必要があるだろう。

偽官軍の名で殺された美濃博徒・水野弥三郎という人

皆さんは幕末に偽官軍として、信州下諏訪で処刑された「赤報隊」のことをご存じだろうか?その後、昭和になって亡霊のように、朝日新聞襲撃事件において「赤報隊」の名が使用された。この赤報隊に深く関わり、最後は自ら縊死した博徒が水野弥三郎である。

博徒名)岐阜の弥太郎  (本名)水野弥三郎
(生没年)文化2年(1805年)~慶応4年(1868年)  享年64歳
      大垣藩本牢内で縊死により自殺

水野弥三郎は、岐阜矢島町の医師の子に生まれるが、医業を嫌って、一心流鈴木長七郎に入門する。めきめきと剣の腕をあげるが、医家から破門され、博徒となる。その後、武儀郡関小左衛門、安八郡神戸政五郎と並ぶ美濃三人衆と称され、子分配下500余人を抱える大親分となる。

水野家は代々京都西本願寺の典医であった。そのため京都とのつながりが強く、新撰組から分離した反近藤派の高台寺党を率いた伊東甲子太郎と関係があった。その後、甲子太郎が暗殺された後は、赤報隊2番隊長で、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎と関係を強めていく。

赤報隊とは、慶応3年12月西郷隆盛らの策略による薩摩邸焼き討ち事件を成功させた部隊が京に戻り再結集、倒幕挙兵の同志を募り、京都を脱走した綾小路俊実滋野井公寿の二卿を奉じて、東征軍の先鋒として編成された草奔の部隊である。一番隊は相楽総三、二番隊は鈴木三樹三郎、三番隊は江州水口藩士油川錬三郎がそれぞれ隊長を務めた。慶応4年正月に江州松尾山金剛輪寺で結隊、15日江州松尾山を出発、近江を経由、21日に美濃の加納宿に到着した。二番隊には、荒神山の決闘から姿を消した黒駒勝蔵が参加していた。

黒駒勝蔵は、水野弥三郎とは親子ほど年が違うが、昔から水野弥三郎の手下の関係にあった。赤報隊から、弥三郎に300人程の子分を出すよう指示があった。弥三郎はこれに応じ、270人の手下を出した。しかし、加納宿での手下博徒らの乱暴、狼藉行為が大きな問題となる。それ以上に問題となったのは弥三郎が、赤報隊美濃路街道沿いに勝手に発布した年貢半減令の告知に深く関わったことにある。

新政府は財政逼迫しており、年貢半減は認めらるものでない。さらに恭順一色の幕府の対応に赤報隊の緊急性は不要となり、むしろ邪魔になった。東山道鎮撫総督府大垣藩に弥三郎捕縛の命令を出す。しかし、弥三郎は手下500人を持つ博徒である。総督府は官軍協力の褒賞授与による呼出の形式をとり、一種のだまし討ちで弥三郎を捕縛した。翌日、事実を知った弥三郎は牢内で縊死して死亡した。

死亡後、加納宿に次のような高札が掲げられた。
   岐阜住人 水野弥三郎
「右之者、従前より天下之大禁を犯し子分と称し候無頼従者衆し、奸吏と交わりをむすひ、良民を悩まし候件、少なからず、あまつさえ官軍之御威光を仮り、欲しい儘に人命絶って候段、不届き至極に付き、召し寄され御詰問之処、申し訳相立たず、罪あり、入牢仰せつけられ候に付き、追々斬罪之上、梟首仰せつけらるべきところ、死去いたし候につき、其の儀に及ばざること相なり、百姓町人共右之次第、篤なことと心得べきものなり。」

水野弥三郎の墓は、水野家菩提寺蓮生寺の家墓から追い出されて岐阜市の共同墓地に眠っている。弥三郎の法名は「釋専志信士」。隣に弥三郎に殉死した子分生井幸治の墓が並んでいる。子分生井幸治の戒名は「勇肝鉄心信士」任侠の生き方が何たるかを後世に伝えている。

歴史の大義に賭けた博徒の思想は幕末維新の中で消滅した。しかし、慶応4年正月尾張藩が急遽編成した「尾張藩草奔隊」に、尾州博徒北熊実左衛門、三州平井の博徒雲風亀吉に並んで、水野弥三郎の一の子分岐阜の高井辰蔵の名前がある。振り返って、幕末の草奔隊には清水次郎長の系列は一人も参加していない。反対に次郎長は、時代の風を読む天性の能力で、葵から菊への大激動を難なく乗り切ってみせた。

 

写真は水野弥三郎の墓(右側)・左側は殉死した子分の生井幸治の墓。

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ヒーロー博徒・国定忠治という人

国定忠治を、幕府代官の羽倉外記が「赤城録」で、「凡盗にあらずして劇盗なり」と言わしめたのは、忠治が相応の学問を修め、かつ剣術にも深くかかわっていたためである。「盗」とは人の守るべき道に外れていることを意味する言葉である。忠治は、赤城の山に立てこもり、代官や関東取締出役と対決した博徒として有名である。清水次郎長が半分、二足草鞋に近いような博徒であったに対し、徹底抗戦を貫き、最後は大戸関所で磔となった忠治の美学に、庶民が共感したのだろう。

博徒名)国定忠治 (本名)長岡忠次郎

(生没年)文化7年(1810年)~嘉永3年(1850年) 享年41歳

     上州大戸関所において磔刑

国定忠治は、上野国佐位郡国定村(現・群馬県伊勢崎市国定町)の富農の本百姓長岡弥五左衛門の長男として生まれ、二男の弟の友蔵が、長岡家を継ぎ、手広く糸繭商いをしていた。忠治は10歳のとき、父親が死亡し、母親に育てられた。忠治が17歳のとき、放蕩から、人を殺め、無宿となる。25歳のとき、島村(現・伊勢崎市)を地盤として、関東取締出役と通じていた島村伊三郎を闇討ちして縄張りを奪う。その後は、関東取締出役を敵に回し、兇状持ちとなった。しかし、次々と各地の賭場を手に入れ、子分500人以上と言われる勢力に拡大していった。

子分に、軍師と言われる日光円蔵、叔父の関東取締出役道案内の三室勘助とその子を殺害し、長槍が得意な板割浅太郎がいる。天保飢饉の際には、地元民救済のため、地元の分限者から金を集め、窮民に金一両と米一俵を配ったと言われる。また、地元百姓の水源である磯沼の浚渫工事を行い、地元で大賭博を開き、田部井村名主の宇右衛門を仲間に引き入れ、賭博のあがり銭で工事を完成させた。

嘉永3年(1850年)7月21日、愛妾の町の家で、忠治は中風を発症して倒れた。弟の友蔵と子分はもう一人の妾である徳の家に忠治を運び込もうとしたが、徳に断れ、やむなく宇右衛門宅に隠した。しかし、関東取締出役の手が宇右衛門宅にも迫り、遂に、忠治、町、徳、宇右衛門ら7人は捕縛される。勘定奉行池田播磨守頼方の吟味を受け、大戸関所破りの罪で忠治は大戸で磔、宇右衛門は死罪、子分は中追放、妾の徳と町は押し込めの罪が決定する。江戸伝馬町の牢から上州大戸刑場に護送される。

嘉永3年12月16日、江戸を立ち、大戸に向かった忠治一行は、囚人忠治を乗せた唐丸籠の前後に、関東取締出役が各地から集めた道案内、エタ頭浅草弾左衛門、非人頭車善七配下の総勢500人が並ぶ大行列である。忠治は、白を基調にした死出の旅装束で、唐丸籠の中で、唐更紗・紅の布団に座り、首に大きな数珠かけた人目を引く姿であった。まさに歌舞伎役者並みである。

12月21日早朝、大戸関所刑場で1,500人の見物客の中、車善七配下の刑吏により執行された。忠治は、槍を左右の肋に交互に受けながら、ひと槍ごとに目をカアアと見開き、十四度目にして瞑目した。

大戸刑場に曝された首と遺体は、妾の徳らの一味が刑吏を買収して、ひそかに持ち帰られ供養された。首は忠治の師匠養寿寺住職貞然が預かり、寺の庫裡の天井裏に隠したと言われている。遺体は妾の徳が自宅に隠し、その後、忠治追慕の墳を建て埋葬した。これが「情深墳」である。「情深墳」はJR伊勢崎駅近くの善應寺にある。正面には忠治の戒名「遊道花楽居士」が刻まれている。その後、大正元年(1912年)に養寿寺庫裡の修理の際、法衣に包まれた忠治の頭蓋骨なるものが発見され、大騒ぎとなった。その意味でも住職貞然の墓碑に刻まれた辞世は、意味深長である。 
  「あつかりし ものを返して 死出の旅」

写真は国定忠治の墓。伊勢崎市国定町 養寿寺にある。

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会津小鉄という人

京都の会津小鉄会が山口組の抗争で話題となっている。会津の小鉄は関東の大前田英五郎、東海の清水次郎長に対して関西の小鉄と呼ばれた博徒である。生まれはどこかわからないが、秩父、坂東、西国、四国巡礼を母親とともに放浪旅をしながら育ったと言われている。
 
大坂に流れ着いたとき、母親が四天王寺雪駄直し職人の内妻となり、小鉄である鉄五郎も養父の職人に引き取られた。鉄五郎が15歳の時、父親の家を飛び出し、江戸に下り、大名の中間部屋の食客となった。17歳の時、いろいろな悪事で江戸におられなくなり、京都に戻り、公家の屋敷で開かれている賭場へ団子、餅、煎餅などを売り歩く商売をして生活をしていた。その後、会津藩の鳶部屋賭場の元締めである専吉の子分となり、野天の賭場荒らしや大坂城番の中間部屋の賭場を荒らし回っていた。
 
明治になってからは政商の藤田伝三郎と知り合い、藤田伝三郎が西南の役で募集した雇い人夫の賃金支払い問題で、人夫が騒ぎ出し、人夫側がストライキを敢行した。小鉄は、藤田の依頼を受けて、人夫たちを押さえつけて、涙金程度の支払いでこの騒ぎを解決させた。この頃から、小鉄は南高津の上坂音吉の息子分となって、上坂仙吉と改名している。この頃の小鉄は、顔面から全身にかけて、あちこちに刀傷があり、左手の指は3本とも失い、人差し指と親指を残すのみの姿であった。
 
明治16年3月の東京日日新聞の記事に、「小鉄は本名上坂仙之助と称し、京都府下京区第二十六組三ノ宮町に居住して、京都、大阪、神戸、滋賀に子分2千余人あり、その子分を合すれば、1万人余になる。知事県令が何を言おうとも従わず、諸国の博打場よりの収入で、平均一日三百五十円の稼ぎとなる。」とその勢力の大なることが記事となっている。
 
小鉄について講釈師は、小鉄の出身は会津藩松平肥後守容保の足軽というがそのような史実は全くない。また、文字を知らなかった小鉄は、賭博罪で入獄中に初めて読み書きを習ったという。小鉄は明治18年に洛外白川で歿した。
 
写真は会津小鉄の墓

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美談で作られた火消の頭・新門辰五郎という人

新門辰五郎は、江戸浅草金竜山浅草寺に住み、鳶仕事師の親分、町火消十番組の頭であり、浅草寺香具師、大道商人等の総元締めである。
 
辰五郎は、寛政12年(1800年)下谷山崎町飾り職人中村金八郎の長男として生まれ、その後、上野輪王寺の家来町田仁衛門の養子となった。新門という名は、倫王門跡宮が浅草寺別当の伝法院へ隠居したとき、浅草凌雲閣付近に新門を作り、その番人に町田を任命したことによる。しかし、町田家は生活困難なため、辰五郎はほとんど教育を授けず、鳶職人の小僧となる。従って辰五郎は一生涯、一字も知らなかったという。
 
江戸の火消は町火消武家火消がある。武家火消は幕府旗本支配下の定火消と大名火消がある。辰五郎の町火消十番組は総勢731人で、町火消の最後にあたり、人数も一番少なかった。そのため、他の町火消武家火消に対する対抗心も強く、常日頃は鳶人足をしながらも、博打好きで粗暴な振る舞いをする者が多かった。
 
たまたま、大名火消の柳川藩火消との間で喧嘩があり、柳川火消側に十数名の死傷者が出た。これにより辰五郎は江戸追放となるも、夜には妻妾の家に戻り、配下を指示したため、さらに佃島送りとなる。この佃島で小金井小次郎と知り合い、本郷円山からの火事が佃島に及んだ際、小次郎と二人で囚人を指導して火消に努め、その功により赦免された。
 
博徒の親分と鳶の頭の違いは、鳶の頭は江戸町民支援の手前もあって、浮浪者を居候にしないが、博徒の親分はその気兼ねがなく、浮浪者、無宿人を食客とする点に違いがある。その点では辰五郎は、勢力範囲が浅草一帯で、香具師、大道商人の売上のカスリが収入の中心のため、町民に対する気兼ねもなく、浮浪者も遠慮なく置き、スリ、誘拐者など無法者も支配下に置いた。その者等のカスリ銭、付け届けの金を押し入れに投げ込んでおいたところ、重さで床が抜けたという。弱者には強く凶暴であっても、強者には極めて従順であったのが辰五郎の本質である。
 
新門辰五郎は、娘が徳川慶喜の愛妾であった関係で、慶喜が京都警備で上京した際には、子分300人を連れて随行している。また、慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗れ、開陽艦に乗って江戸に逃げ帰った時には、大阪城に大金扇の馬印を置き忘れ、辰五郎がこれを城内から持ち出し、陸路東海道から江戸に持ち帰った。慶喜が水戸へ謹慎となった時は、2万両の用金を辰五郎が水戸へ輸送したという。
 
これらが後日、美談として伝えられている。しかし、当時、官軍側がそれほど優位な情勢ではなく、権力中心は幕府にあり、判官贔屓の江戸庶民の気持ちが辰五郎の美談につながったもので、褒めるほどの事ではない。唯、辰五郎が、徳川氏を天皇より上に考えていたことは事実である。明治になって、祭礼の提灯に、上に日の丸、下に葵の紋がつけてあるのを見て、怒った彼は、提灯を破り捨てたという。
 
明治8年(1875年)9月馬道の自宅で、76歳で病没した。辞世の歌に
   「思いおく、まぐろの刺身、ふぐと汁
       ふっくりぼぼに、どぶろくの味」
真偽の程はわからないが、好きなものを並べたもので、上品な歌ではない。
 
 
写真は新門辰五郎の墓(東京板橋巣鴨 盛雲寺にある)

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