兵藤恵昭の blog

団塊世代の特定社会保険労務士。博徒史、アウトロー中心に書いています。

日本最悪の羆襲撃事件「三毛別羆事件」

三毛別ヒグマ事件」をご存知だろうか?北海道の開拓村で起きた日本最悪のヒグマによる村民襲撃事件である。この事件の実態を描いたのが元北海道庁林務官木村盛武の本「慟哭の谷」である。作家吉村昭はこの事件を小説化して「羆嵐」を発表した。「三毛別ヒグマ事件」は大正4年(1915年)12月9日から12月14日にかけて北海道苫前村でヒグマが次々と民家を襲い、開拓民7名(うち1名は胎児)が死亡、3名が重傷を負った事件である。

大正4年12月9日朝、越冬穴を見つけられなかった「穴持たず」のヒグマによって、三毛別川上流にある太田家が襲われ、内妻阿部マユ(34歳)と6歳の少年幹雄が殺された。夫の太田三郎は、寄宿人の長松要吉とともに朝早くから木材の伐採に出かけ、留守であった。昼近く、要吉が用事で家に戻ると、居間の窓が破られ、くすぶる薪が転がり、囲炉裏までヒグマの足跡があり、柄が折れた血染めのマサカリが落ちていた。家には幹雄の遺体のみ残り、マユの遺体はなく、居間の窓枠にはマユのものと思われる頭髪が絡みついていた。ヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って居間の窓から屋外に出たと思われる。この状況から、最初に幹雄がヒグマに襲われ、マユは逃げながらマサカリを持って、必死に抵抗したことを表している。

翌日の早朝、村人たちはヒグマの足跡を追って、マユの遺体捜索に向かった。マユの家から150mほど森の中に入ったところでヒグマを見つけた。すぐに発砲したが鉄砲は一発も当たらず、ヒグマは逃走した。村人たちがヒグマのいた所を捜索すると、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があった。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ブドウ色の脚絆が絡まるひざ下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするためだった。このヒクマは人間の肉の味を覚えた。

翌日10日の夜、太田家で通夜が行われたが、ここにもヒグマが再度襲来した。この時、会葬者は天井の梁に登ったりして何とか難を逃れた。しかし太田家が襲われた30分後には、近くの明景家に避難していた住民10名のところに再びヒグマが現れた。ここでは妊婦の斎藤タケ(34歳)、その子の巌(6歳)、春義(3歳)とタケの胎児、明景家の三男である金蔵(3歳)の5名が殺害された。タケはその時、臨月の妊婦であった。ヒグマに襲われたタケは、「腹を破らんでくれ!」のど食って殺して!」と叫んだという。上半身を食われたタケの腹は破られ、胎児が引きずり出されていた。ヒグマが胎児に手を出した様子はなく、その時にはまだ胎児は少し動いていたが、一時間後には死亡した。

12月12日には警察を中心とする討伐隊が組織された。ヒグマの射殺を図るも発見されず、翌日、13日には旭川歩兵第28連隊から将兵30名が出動した。ヒグマは獲物を取り戻す習性があるため、警察は、犠牲者の遺体を餌に、ヒグマをおびき寄せる前代未聞の作戦を展開した。ヒグマは家の近くまで現れたが、人の気配を感じると森へ引き返した。

地元熊捕り名人のマタギ山本平吉は、討伐隊とは別に単独で山に入り、ヒグマを狙っていた。14日の朝、平吉はヒグマを見つけ、20mまで近づき、射撃した。一発目はヒグマの心臓近くを打ち抜いた。ヒグマが仁王立ちした瞬間、即座に二発目を充填、二発目はヒグマの頭部を打ち抜いた。

ヒグマは、金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340キロ、身の丈は2.7mにも及び、体に比べ、頭部が異常に大きかった。解剖の結果、腹からは阿部マユが着用していたブドウ色の脚絆のほかに別の女性と思われる赤い肌着の切れ端も見つかった。赤い肌着は、数日前に天塩の飯場で襲われた女性のものと一致した。

一度、人を襲ったヒグマは、再び人を襲う習性がある。今回のヒグマは特に女性を狙って攻撃する習性があった。事件で投入された討伐隊は延べ600名、鉄砲は60丁に上った。

ヒグマが射殺されたとき、それまで続いていた晴天が激しい吹雪に急変した。言い伝えによれば、クマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を「羆嵐」と呼ぶ。ヒグマの肉は犠牲者供養のため、煮て食べられた。しかし肉は硬くて旨くなかったという。毛皮、肝などは50円で売却され、被害者家族に渡された。

写真は事件の再現現場。北海道苫前郡苫前町三渓

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写真は案内板

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北海道最果ての樺戸監獄

樺戸監獄をご存じだろうか?明治12年設置の東京小菅の東京集治監、仙台宮城集治監に次いで北海道に設置された集治監である。よく知られている網走監獄は樺戸監獄の分監として開設された。その他の分監としては空知監獄、釧路監獄がある。

明治初め、西郷隆盛西南戦争以降の自由民権運動政治犯や、無期徒刑から15年以上の懲役囚を収容する集治監として、北海道に「樺戸監獄」が設置された。開設は明治14年、初代典獄は月形潔である。月形潔の叔父、月形洗蔵は、尊王攘夷を唱える筑前勤皇党の首領である。

囚人は、明治維新政府から北海道開拓の労働力に利用され、厳しい環境のなかで、鉄の鎖を装着され、道路工事、水道工事など過酷な労働に使役された。現在も、囚人の作った道路である「樺戸道路」が残っている。

この囚人活用による北海道開拓政策を建白したのが、伊藤博文の側近の金子堅太郎である。建白書のなかで「囚徒は道徳に背く悪党である。懲罰として苦役をさせれば、工事費が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になる」と述べられている。

使役の厳しさは、最初の1年間で、372名の収容囚人のうち、35名が病死し、2名が脱獄していることでもわかる。明治15年新選組永倉新八も、看守の剣術師範として赴任している。

囚人は鉄球で足を繫がれ、赤い囚人服で、真冬でも足袋はなく素足である。吉村昭の小説「赤い人」でも有名である。この監獄には有名な脱獄囚「五寸釘の寅吉」も入獄し、二度も脱獄に成功している。

大正8年、樺戸監獄は39年の歴史を終え、廃監された。39年間で、1,046名の囚人が死亡している。うち逃亡による斬殺が41名。死亡者のうち遺族に引き取られたのは、わずか24名。残りの1,022名の囚人は監獄近くの囚人墓地である篠津山墓地に今も眠っている。

写真は樺戸監獄近くにある篠津山囚人墓地。南無阿弥陀仏。合掌

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海賊房次郎と破戒僧・大須賀権四郎という人

北海道樺戸郡月形町に旧樺戸集治監がある。ここに明治の終り、対照的な二人の囚人がいた。一人は「海賊房次郎」と呼ばれ、もう一人は「破戒僧・大須賀権四郎」である。

明治43年、15年の刑期の強盗犯・大沢房次郎が入所した。房次郎は「海賊房次郎」の異名があるほど水中での潜りの名人であった。

当時、樺戸監獄は石狩川の流れを利用して、上流の札比内分監から樺戸監獄波止場の水揚げ場まで、囚人たちによる木材切り出しが盛んに行われた。この危険な水揚げ作業の頭として囚人を仕切ったのが海賊房次郎である。

入獄当時は看守に反抗した時期もあった。しかし囚人、看守の信頼を受けるようになると模範囚となった。大正8年樺戸監獄が廃監となると、房次郎は網走監獄に移り、無事に刑期を満了した。

もう一人は僧侶の「大須賀権四郎」である。権四郎は僧籍ながら酒と女にふけり、そのため寺を追われた破戒僧である。喧嘩で人を殺し、15年の刑を受け樺戸に来た。

監獄でも作業の隙をみて脱獄を図り失敗、再び樺戸に戻されている。しかし権四郎は学問があり、法律知識も豊富のため、看守たちに反抗的態度を取り、看守たちから嫌われていた。

大正2年春、作業の無い日曜日、獄内で囚徒が僧侶から教誨を受ける集会が行われた。権四郎だけは屁理屈をこねて、監房から出房を拒んだ。苛立った里見監房主査は、木刀で権四郎を一撃した。

この一撃が致命傷となり、権四郎は死亡してしまった。その時、僅か30歳、篠津の囚人墓地に眠ることとなった。人の生死は人生の分かれ道をどう進んだか?ほんのわずかな違い。

写真は樺戸監獄近くの篠津の囚人墓地

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脱獄囚・五寸釘寅吉という人

明治の頃、北海道最果ての監獄である樺戸監獄から何度も脱獄に成功した脱獄囚がいた。異名を五寸釘寅吉と呼ばれ、人並を外れた運動能力で数々の脱獄を成功させた。数々の強盗、放火、傷害事件を起こした無期囚で、本名を西川寅吉と言う。

(別名) 五寸釘寅吉
(本名) 西川寅吉
(生没年)安政元年(1854年)~昭和16年(1941年)
     三重県多気郡で死去。享年87歳

寅吉は、安政元年(1854年)、伊勢国多気郡御糸郷佐田村(現・三重県多気明和町)の被差別部落の貧農の四男として生まれた。複雑な家庭事情から21歳の時に傷害事件を起こし、2年の刑を受け、渡会監獄(現・三重県)に入所した。

刑期を終えて出所しても、兄の博奕仲間に引きずられ、強盗や傷害事件を繰り返し、横浜監獄、三重監獄に入所した。最初の脱獄はこの横浜監獄で、移送中に看守の目を盗んで逃走した。また地元の放火事件で入所した三重監獄でも、仲間とともに脱獄に成功している。

この後、脱獄犯として賭博をしながら逃亡、静岡県で博奕の揉め事にかかわり、警察に追われる身になった。この時偶然、盗みに入ろうとした質店で、警察に見つかり、2階から飛び降りたとき、工事中で散らばっていた五寸釘が打たれた板を踏み抜いた。しかしそのまま2里半(10キロ)を走り抜いたという。

五寸釘の傷を治している最中に、寅吉は再び御用となり、東京の小菅集治監に入れられた。この出来事が東京の新聞に載り、一躍「五寸釘の寅吉」として有名になった。その後、小菅集治監から北海道空知集治監(現・北海道三笠市)に送られた。この空知監獄でも、作業中に看守の目を盗み、脱獄に成功している。

空知監獄を脱獄した寅吉は、西川安太郎と名前を変えて、神奈川県で強盗を働いたところを捕まり、今度は北海道樺戸集治監に入れられた。樺戸監獄で、以前に空知監獄にいた看守に寅吉の正体を見破られた。雑居房から厳重な独居房へ移され、一番重い1貫目(3.75キロ)の鉄球が着けられた。

ここでも寅吉は脱獄に挑んだ。一度目は、堰堤補修工事作業中に看守を襲い、厚田村へ逃亡した。しかし5日目には捕まり、樺戸監獄に戻された。二度目は、さらに厳重な警戒の中、工事の外役から帰り、鉄球が着けられるすきを狙い、看守を蹴り上げ、気絶させて看守を房に閉じ込めた。廊下を走り抜き、外に出て、走りながら途中の水場で赤い囚人服を脱ぎ濡らした。

外に出た寅吉は、目の前の18尺(5.5m)の高塀に囚人服をたたきつけ、その吸着力で塀を乗り越えてしまった。さらに監獄の前の石狩川船着き場にある対岸へのケーブルを伝わって逃走した。人並み以上の体力と運動神経で、脱獄は不可能と言われた樺戸監獄の脱獄に成功したのである。

樺戸の脱獄の後、寅吉が現れたのは埼玉監獄である。この時も井上銀次郎という偽名を使い、強盗の罪で捕縛され、無期刑囚となっていた。その後、北海道の釧路監獄に送られた。釧路監獄の看守長は以前、空知監獄に勤め、寅吉をよく知っていた。しかし40歳を前に、寅吉の体力、気力も衰え、これ以降、寅吉もおとなしく刑に服すようになった。

9年後には網走監獄に移された。かつての神仏をも恐れぬ強盗無期囚から一変して、模範囚となっていた。大正13年の秋、寅吉は刑期を短縮され、自由の身となった。その時、寅吉はすでに72歳になっていた。

自由の身となった寅吉は、利にさとい興行師に誘われ、「五寸釘寅吉劇団」の一座を作り、全国を巡業した。しかし、最後には息子のいる故郷・三重に帰り、畳の上で人生87歳の大往生を遂げた。

写真は北海道樺戸郡月形町にある「樺戸集治監」の本庁舎。玄関は多くの人が出入りしたのだろう。玄関の石がすり減っている。

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博徒・合の川政五郎という人

合の川」とは、現在の群馬県邑楽郡板倉町と埼玉県加須市の境界を流れる利根川の流路の一つである。ただし、現在は廃川となっている。この付近は利根川の流路を利用して、銚子の海産物、醤油などを江戸に送る船運基地として物流、商業地として繁栄していた。
 
博徒名)合の川政五郎 (相の川、間の川とも書く)
(本名) 高瀬仙右衛門茂高
(生没年)天明8年(1788年)~ 万延元年(1861年
     12月25日死去、享年 73歳
 
この邑楽郡大久保村(現在の板倉町)出身の博徒で「合の川政五郎」がいた。政五郎はこの地域で廻船問屋を営む高瀬家の次男として生まれた。政五郎の兄は常蔵といい、高瀬家の八代目に当たるが、若いころから遊び好きで、女性と揉め事を起こし、女性から金銭強要されたことから、この女性を殺害してしまった。さらに被害者の女性の遺族から訴訟を提起され、訴訟が長期化した。最終的には常蔵は勝訴したが、訴訟費用がかさんで、高瀬家は破産同様となった。しかも当事者の常蔵は、責任を感じてか、高野山に上り、出家してしまった。
 
高瀬家の七代目である先代の平八は若死にしており、高瀬家には、幼い政五郎以外は女性ばかりとなった。仕方なく、政五郎は、先代平八の昔からの知人である近くの村の博徒・新八に預けられ、育てられるようになった。博徒・新八に育てられた政五郎は、15歳の頃から賭場に出入りし、大人相手に博奕をやるようになった。
 
政五郎はやがて博徒修行のため、旅に出る。東海道甲州、信州をめぐり、最終、越後の長岡に腰を落ち着けた。この頃は「越後の政五郎」と呼ばれ、一人前の博徒、親分になっていた。修行の旅の途中、政五郎はその度胸の良さと男意気で、各地にいろいろな伝説を残している。
 
その後、越後から信州善光寺門前町の権堂に移り、遊女を抱える旅籠「上総屋」を経営する主人になった。当時この辺りは、善光寺参りの人に紛れ、各地から追手から逃れた博徒が集まり、地元の者からもこれらのやくざ者の管理をする要請もあったためである。この当時、政五郎は40歳近くで、子分も2,000人余りを抱える上州出身の親分に成長していた。この頃、国定忠治が信州に逃亡した際、善光寺門前の合の川政五郎に世話になったとの話もあるが、時期的に合わず、信頼できない。
 
政五郎は、42歳になったとき、考えるところがあって、縄張りを弟分の嶋田亥伝次に譲った。そして堅気となって、故郷の邑楽郡大久保の生家に戻り、没落した高瀬家の再興を図る。
 
帰国後、政五郎は生家立て直しをして、八代目高瀬仙右衛門茂高を名乗る。文政11年には関東取締役出役の案内役を務めた。最後には、川俣組合40ケ村の大惣代をも務めるようになる。晩年は自分の無学を恥じて、日夜読書に励んだという。万延元年12月死去。73歳であった。墓は邑楽郡大久保本郷(現在の板倉町大高嶋)の清浄院にある。法名は受法院清徳翁居士。
 
政五郎と同じ邑楽郡板倉町出身の幕末の博徒で間ノ川又五郎がいます。彼は、政五郎より27歳年下で、政五郎と同様、信州に向かい、一家を構えています。
 
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江戸城の御金蔵を破った盗賊たち

享保5年(1720年)5月、京都二条城御金蔵から2百両が盗まれた。翌年には、大坂城の御金蔵から金が盗まれた。この2件は番方同心の犯行であった。しかし、厳重警備が予想される江戸城の御金蔵に忍び込む者はいなかった。
 
御家人崩れ浪人藤岡藤十郎と、野州犬塚村無宿富蔵が、江戸城の奥深く忍び込み、御金蔵から4千両を盗み出す前代未聞の犯行に成功した。時期はペリー来航で幕府が慌てふためいていた安政2年である。
 
無宿富蔵は以前に盗みを働き、敲き刑の上入れ墨をされていた。富蔵は、その入れ墨を消して、御天守番頭の近藤義八郎の中間奉公をしたのち、御手先組屋敷の木戸番をして、牛込払方町に住んでいた。
 
一方の藤十郎は、御家人時代に近藤義八郎家の家臣と懇意にしていた時期がある。その頃、富蔵と知り合った。二人は偶然再会すると、富蔵が御金蔵に忍び込ることを提案した。藤十郎は成功するとは思わなかったが、金に困っていたため、これを了承した。
 
富蔵は、当時、警備が緩み切っていた江戸城へ、お城の矢来門を乗り越え、石垣伝いに都合6回ほど忍び込んだ経験があった。富蔵は、何ケ所の御門の警備状況、警備の交代時間を調べ、御金蔵の錠前の写しを取って帰った。その写しで藤十郎が、合い鍵を作った。更に田安家の下士に金を貸して、田安家の門鑑(通行証)を手に入れた。
 
計画通りに江戸城に忍び込んだ富蔵が、御金蔵から2千両箱2箱を盗み出すと、縄で吊り降ろし、北詰橋石垣下で待つ藤十郎がこれを受け取った。二人は重さ24~25キロもある2千両箱を、襦袢に包んで担ぎ、明け方に田安門を
出た。
4千両(約7億2千万円)は藤十郎宅床下の瓶に入れて埋め、藤十郎は、富蔵の分け前を、生活が派手にならないように小出しに渡し、合計2,265両を分け前分と渡したという。
 
御金蔵が破られたことを、役人が知ったのは事件から3ケ月後であった。幕府最大の汚点となるため、捜査は極秘裏に進めた。手掛かりは、使用跡のない天保小判、一分金、二分金を持っている者、さらに急に金遣いが荒くなった者である
 
 
奉行所は、江戸市中の両替商に、盗まれた貨幣の特徴を教え、そのような貨幣を両替に来た者は直ちに報告するように通達した。合い鍵作り職人をリストアップして調査するも、手掛かりはつかめなかった。
 
藤十郎は、御用商人になる願望があり、御小人株(武家で雑務する者の権利)を買って、御三卿の田安家に入ると、真面目な仕事ぶりから小人目付に抜擢された。1年後には田安家を辞し、信濃屋治兵衛を名乗り、日本橋上槙町に材木店を開いた。甲州から材木を仕入れ、作事方に商売を試みるも、にわか商人に注文はなかった。
 
事件から2年後、南町奉行所同心、村井傳太夫が使う岡っ引きの陣十郎が、商売をしていない信濃屋治兵衛を怪しみ、調査を開始した。
 
一方の富蔵は、加賀に逃亡し潜伏していた。金沢で下女にピカピカの小判を与え、下女がその小判を使ったことにより、足が付き、捕縛されていた。
 
岡っ引き陣十郎の調査から疑いは強まり、同心の村井傳太夫から与力の今泉覚左衛門に報告が上がり、召捕りが決まった。
 
事件から2年後の安政4年2月、信濃屋に捕り方が踏み込むと治兵衛は抵抗もせず、捕縛された。5月には信濃屋治兵衛こと藤岡藤十郎は、富蔵ともに引き廻しのうえ、小塚原で磔となった。事件の詳細は表沙汰にならなかったが、江戸城御門の役人27名が罰せられたという。

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相対死(心中)した二川宿の飯盛女たち

街道における遊女の存在は古く、平安末から鎌倉時代白拍子と称される女性がいた。江戸時代、各宿場に遊女まがいの飯盛女がいたことはよく知られている。幕府は享保3年(1718年)飯盛女の数を旅籠屋1軒あたり、2人までとしてその存在を黙認した。飯盛女を置かない旅籠を「平旅籠」、置く旅籠を「飯盛旅籠」と呼んだ。

天保13年(1842年)二川宿(豊橋市二川)の「飯盛女人別帳」には37軒の旅籠屋のうち、30軒に一人または二人の飯盛女がおり、総数は57人となっている。当時、旅籠料金は、一泊2食付きで200文(約6千円)であり、飯盛女の料金は400文(川崎宿の例、約1万2,000円)と言われている。

 
飯盛女が奉公する場合、「飯盛下女奉公人請状」という証文を作成する。現在も二川宿に一枚だけ証文が残っている。それによると、天保9年(1838年)吉田宿曲尺町平蔵の娘みきが、二川宿旅籠屋巴屋へ年季14年余りで奉公したとある。給金は金1両2分(約27万円)と驚くほど低額で、前払いで親の平蔵に渡されている。奉公理由は「御年貢ニ差詰り」とある。

 
人別帳に記載された飯盛女8名の平均年齢は17.5歳。近隣の村出身者が多く、遠くは伊勢国出身が4名いる。中には、厳しい生活から逃れるため、馴染み客と心中、駆け落ちする飯盛女も多くいた。

嘉永6年(1853年)旅籠屋巴屋の飯盛女きゃうが相対死(心中)している。きゃうは伊勢国安芸郡白塚村出身で当時24歳。当初、岡崎宿伝馬町旅籠屋の煙草屋新太郎へ飯盛奉公、次いで御油宿中町錦屋佐与吉方に移り、さらに二川宿巴屋に移動している。これら飯盛女の移動を「限出」と言う。奉公とは言え、旅籠屋の借金の質物として年季終了前に商品同様に売買されていた。

きゃうは、嘉永6年10月27日夜家出し、二川宿の旅籠屋格子屋平右衛門の倅七蔵と二川大岩町火打ち坂近くの池に飛び込み、相対死した。飛脚の知らせを受けたきゃうの親は、二川宿に駆け付け、不始末を詫び、本来なら支配役所に届け、検死を受けるべきも、御油宿錦屋の申し出もあり、内密に事を済ませ、二川宿の松音寺へ葬られた。

安政6年(1859年)旅籠屋中屋の飯盛女みつが相対死している。みつは、二川宿出身で、年齢は不明、二川宿中屋半左衛門で飯盛奉公していた。同年8月11日夜に家出し、二川宿大岩町の沢渡池に飛び込み、二川宿南方小島村の清作と相対死した。みつの場合も支配役所に届出せず、内々の処理となった。しかし、この一件は支配役所の知るところとなり、小島村からの未届けにつき、支配役所よりきつい叱りを受け、詫び状を提出している。

文久年(1861年)には駆け落ち事件が発生している。三河国碧海郡桜井村の市五郎は、二川宿の旅籠屋伊勢屋利左衛門方に宿泊し、隣の旅籠屋清川屋与平次方から酒の相手として飯盛女やゑを呼んだ。しかし、その夜、市五郎とやゑは欠落(駆け落ち)したため、所々に手配をし、追手を差し向けた。

三日後、追手は両人を宝飯郡大塚村で発見し、すぐさま二川宿に連れ戻そうとした。しかし、途中で市五郎の知人と称する金作と熊蔵と出会い、両人の頼みで、欠落した市五郎・やゑを宝飯郡西方村で1泊させ、追手の者は報告のため、二川宿に帰った。しかし、その夜の内に市五郎・やゑは逃亡してしまった。

二川宿は、なおざりに捨て置くことはできず、西方村に掛け合ったが、話し合いはつかず、西方村の領主である大岡越前守役場に訴え出た。その結果、金作・熊蔵から金4両(約72万円)を二川宿に支払うこととなった。

 
飯盛女は、伝馬御用を勤める宿場の財産という意識があり、逃亡に際しては厳重な探索が行われ、逃亡を手助けした者は、他領の者とは言えども、訴訟を起こし糾弾された。

飯盛女の存在によりその宿場が栄えるため、飯盛女の多寡は旅籠屋と宿場の繁栄を左右する。従って、各宿場では、飯盛女の働きにより収入を得る旅籠屋から、運上金・冥加金名目で金銭を上納させている。

二川宿で旅籠屋から運上金を徴収し始めたのは、天保14年(1843年)からである。飯盛女およそ30人と見積もり、7両2分(約135万円)を徴収している。その後、徴収金額は、翌年弘化元年には金6両(約108万円)となり、弘化3年(1847年)には3両(約54万円)に減少している。

 
これは飯盛女の人数減少と宿場の繁栄とも関係している。二川宿は、東西に見附宿、吉田宿と大きな宿場と隣り合わせているため、宿泊せずに素通りする旅人も多かったことがその理由であろう。

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無宿浪人・平手造酒という人

ヤクザの用心棒・平手造酒(平田深喜)は皆さんも良く知っているだろう。三波春夫大利根無情、「佐原囃子が聞こえ来る。思い出すなぁ、お玉ケ池の千葉道場、平手造酒も今じゃ、やくざの用心棒、人生裏街道の枯れ落ち葉・・・」のセリフで有名である。

平手造酒は、天保15年(1844年)8月6日、飯岡助五郎と笹川繁蔵との闘いに笹川繁蔵の助っ人として参加、闘死した。講談、浪曲「天保水滸伝」の名脇役である。この闘いは飯岡方50数名、笹川方20名あまりだったが、笹川方は準備周到で、死んだのは造酒ひとりのみだった。

(別 名) 平田深喜、または平田三亀
(生没年) 生年不詳~天保15年(1844年)8月7日
      享年37歳前後

平手造酒は元仙台藩士あるいは元紀州藩士とも言われる。流浪の末、下総国香取郡松崎(現・神崎町松崎)の名主・山口左衛門宅に身を寄せ、剣道道場を開いた。そこで博徒の親分笹川繁蔵と知り合い、用心棒になった。

平手造酒は喧嘩、斬り合いの末、翌日に死んだ。今もその死体見分書写しが飯岡町歴史民俗館に残っている。見分書による死体の状況は下記のとおりである。
1.天窓に長さ6寸程の十文字切り傷、長さ1寸程他に3ケ所。
2.右の肩、長さ2寸程、左の肩、3寸程。
3.腕に長さ2寸程の切り傷3ケ所。
4.左の脇腹から心中にかけて長さ8寸程、同膝に長さ3寸程の切り傷。
都合11ケ所あり、繁蔵宅前に倒れており、家に入れて、医者が手当も死亡との記載がある。

「実録天保水滸伝」著者野口政司の伝えによると、野口氏の家の隣の岩瀬家が笹川繁蔵の子孫で、野口氏の祖母の話は「平手造酒は痩せ男で、顔色悪く、斬られたときは腸が飛び出ていた。」という。

大利根無情の「止めてくださるな妙心殿、落ちぶれても平手は武士。男の散り際だけは知っております。どいて下され、行かねばならぬ。」のセリフのようにまさに無情の死であった。

笹川事件は、御用を務める二足草鞋の助五郎が繁蔵召捕御用書状を持って、殴り込みをかけたため、のちに飯岡周辺の村に対して、費用が徴収され、村民の評判は良くなかった。

旧飯岡村は上州高崎藩8万2千石の飛び地領の一部で、石高は17ケ村の合計で5,619石あり、現在の銚子市全体を占めている。治安管理は銚子陣屋の支配下にあった。

一方、旧笹川村も伊勢の津藩の飛び領であり、諸家分知領内で実質無警察状態、治安は悪く、博徒が活動しやすい地域であった。

事件から3年後、弘化4年(1847年)、笹川繁蔵は飯岡助五郎手下の闇討ちにより斬殺される。その後、昭和7年(1932年)、銚子町で道路工事中、繁蔵の胴体が発見され、翌年に首塚が発見された。繁蔵の縁者が遺骨を引き取り、100年振りに故郷の笹川に戻った。

神崎町松崎の心光寺に平手造酒が身を寄せた名主が建てた墓がある。
墓石には、戒名「儀刀信忠居士」、「天保15年甲辰8月16日」、「平田三亀の墓」と彫られている。下記をクリック。
(参照)心光寺の平田三亀の墓

※ブログ内に下記の記事もあります。参照してください

(参照)悪者博徒の代表・飯岡助五郎と言う人

YouTube 三波春夫大利根無情」

www.youtube.com


下の写真は笹川(現・香取郡東庄町)の延命寺にある平手造酒の墓。

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白波五人男の盗賊・日本左衛門という人

白波五人男『問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放たれ、身の生業も白波の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊の噂、高札に・・・』と大見えを切った大泥棒「日本駄衛門」が有名である。この日本駄衛門は実在の盗賊「日本左衛門」がモデルである。
 
日本左衛門は尾張藩遠州地区の七里役(藩専用の飛脚で、7里を走り次に渡す飛脚、足軽)濱島富右衛門の子として生まれた。若い頃から放蕩を繰り返し、20歳のとき、親に勘当された。
 
23歳頃から盗人稼業に入り、200名ほどの盗賊団の頭目になり、近隣諸国を荒らし回った盗賊である。その被害は14件、2,622両余りと言われている。
 
容貌は、175cmほどの長身、鼻筋がとおり色白で、顔に5cmほどの切り傷があった。盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を手配して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃亡するという用心深さであった。
 
押し込むときは、手下50~60人を使い、提灯30帳を灯し、押し入った家族全員を縛り上げ、金の置き場所へ案内させ、強奪した。時には嫁や下女たちまで狼藉したとあり、かなり荒っぽい盗賊団であった。
 
日本左衛門本人は直接に手を下さず、時には金箱を砕いて包みから、難儀ある者に施したとも、盗みはすれど非道はせずと手下に説いたとも言われている。
 
(本名)  濱島 庄兵衛
(生没年) 享保4年(1719年)不詳~延享4年(1747年)3月11日
      盗賊で手配、京都町奉行に自首、獄門。享年29歳
 
延享3年(1746年)9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣された。これにより盗賊団の幹部数名は捕縛されたが、頭目の日本左衛門は逃亡した。
 
この騒動で、地元掛川藩城主の小笠原長恭は責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相楽藩の本多忠如も福島県の泉に移された。
 
日本左衛門は、伊勢国古市で自分の手配書が出回っている噂を聞き、さらに遠国の安芸国宮島まで逃亡を図る。しかし宮島でも自分の手配書を目にして、もう逃げ切れないと観念した。当時、手配書は親殺し、主殺しの重罪に限られ、盗賊としては日本初の手配書であった。
 
日本左衛門は延享4年(1747年)1月7日、京都町奉行永井丹波守尚方(大坂町奉行牧野信貞の説もある)に自首した。
 
大坂町奉行牧野に自首したとき、今日は休日だから明日来いと言われ、翌日、自首したとも言われている。捕縛後、江戸に送られ、北町奉行によって小伝馬町の牢に繫がれた。
 
刑罰は市中引き回しの上、獄門とされ、仲間の中村左膳(左膳は京都の公家に仕える武士であった。)6名とともに処刑された。刑は同年3月11日、遠州鈴ケ森(三本松)刑場で、その首は遠江国見附(現・磐田市付近)に晒された。
 
その首を愛人のお万が盗み出し、金谷宿、川会所跡の南にある宅円庵に葬ったと言われる。今も宅円庵には日本左衛門の首塚がある。その地には「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑が残っている。
 
日本左衛門が盗賊を働いたときは八代将軍吉宗の時代である。当時は享保の改革が進められ、庶民に倹約と重税が求められ、息苦しい生活が余儀なくされていた。そのため、表立って権力に逆らう日本左衛門が義賊として庶民に持て囃されたのであろう。
 辞世の句 「押し取りの人の心は重なりて、身に首縄かかる悲しさ」
 
ブログに関連の記事があります。よろしければ閲覧ください。
 
下の写真は磐田市内瑞雲山見性寺にある日本左衛門の墓。ここに処刑後に、首が盗まれた後の身体、衣服を埋めたと言われる。
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下の写真は島田市金谷の宅円庵にある首塚である。愛人お万が遠州見附から首を盗み、ここに埋めたと言われる。

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博徒・竹居安五郎の三つのお墓

竹居安五郎は、竹居村名主の男として生まれ、黒駒勝蔵の兄貴分でもあり、甲州を代表する博徒である。別名「竹居の吃安」とも呼ばれている。

安五郎が17歳の時、人斬り長兵衛の代参で兄手合い7人と一緒に相模国道了尊の祭りに賭場を張りに行った。しかし、到着が遅れたため他の一家に場所を取られ盆を敷くことができなかった。連れの仲間は諦めたが、安五郎は多数の親分衆相手に直談判し、甲州弁で火の出るような啖呵を切り、賭場を分けて貰った。この時、大いにどもりが出たので「吃安」のあだ名がついたと言う。

 

安五郎はどんなに有能な旅人でも「いびき」をかく者は身内にしなかった。理由は賭場開帳の際に忍びこんできた役人の足音がわからなくなること、また、逃亡の際には藪の中でも寺の縁の下でも眠らねばならず、いびきをかいていてはすぐに見つかってしまうためであるという。 

 

安五郎は嘉永4年(1851年)伊豆新島へ流罪となる。嘉永6年(1853年)68日の深夜、流人7人とともに島抜けに成功した。島抜け後、伊豆国博徒・大場久八の手助けで甲州に戻った安五郎は、黒駒勝蔵らの子分を得て一家を構え、博徒に復帰した。しかし、関東取締出役や石和代官に追われ、さらには地元博徒の国分三蔵、祐天仙之助らとも敵対した。

ついに文久元年(1861年)国分三蔵、祐天仙之介らの奸計により石和代官に捕縛される。翌年3月には甲府堺町の牢に移され、牢内で死去する。子分から奪還されるのを恐れた役人に毒殺されたとの噂もある。享年52歳であった。

安五郎の墓所笛吹市内の寺院に三か所ある。それぞれの墓所の墓石に刻まれた没年月日、戒名・法名はすべて異なっている。

一つ目は、笛吹市八代町竹居にある浄源寺である。八代町竹居は安五郎が生まれた村である。浄源寺墓石の没年月日は文久2年(1861年)217日と刻まれている。甲府町年寄「坂田家御用日記」によれば、同年217日は安五郎が捕縛され、入牢した年月日である。入牢した日を死亡日と判断し、記されたものと考えられる。

二つ目は、笛吹市石和町唐柏にある常在寺の墓石である。常在寺の墓石には嘉永7年(1854年)125日と刻まれている。常在寺の墓石は安五郎の子分の石原市五郎が建てたものである。墓石に刻まれた没年月日は、安五郎が新島を脱出して甲斐に潜伏していた時期にあたり、役人の追跡をかかわすための偽装工作として墓石を建てた可能性がある。

三つ目は、笛吹市石和町市部の仏陀禅寺の墓石である。仏陀禅寺の墓石には文久2年(1861年)106日の没年月日が刻まれている。仏陀禅寺の案内板によれば、安五郎の墓石は元々「牢屋に近い臨済宗祥雲山接慶院」に存在し、その後、接慶院が廃寺となり、昭和41年(1966年)仏陀禅寺に移転され、平成13年(2001年)改修されたと言う。「坂田家御用日記」によれば、文久2年(1861年)312日には安五郎は石和代官に捕縛され、すでに入牢しており、その日までの生存が確認されている。従って、捕縛され、入牢してから8ケ月後にあたる仏陀禅寺の文久2年(1861年)106日死去の没年月日が最も蓋然性が高いと考えられる。
 
ブログに関連の記事があります。よろしければ閲覧ください。
 
 ※下記の一番下の写真は、一つ目の浄源寺の墓石である。戒名は「鐘嶽玄微居士」と刻まれている。
※下記の上の写真は、二つ目の常在寺の墓石である。戒名は「心誠院諦吾日道信士」と刻まれている。
※下記の真ん中の写真は、三つ目の仏陀禅寺の墓石である。砲弾の形をした墓石とお地蔵さんが並んでいる。砲弾形の墓石には戒名「心岳宗安禅定門」と刻まれている。
 
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仙台の博徒・丸屋忠吉という人

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仙台の侠客・丸屋(鈴木)忠吉を知っている人は少ない。

丸屋忠吉は幕末博徒の大前田英五郎、大場久八、相模屋政五郎と並んで、全国的に名を知られた博徒である。庶民的には国定忠治清水次郎長が講談で有名だが、当時の大物博徒・親分とは前者の博徒を指すのが一般的である。

蛮社の獄で捕縛された蘭学者で医師・高野長英が江戸の伝馬町牢屋敷を火災に紛れて脱走した。その長英が故郷の奥州・水沢に住む母親に一目会うため、東北へ逃亡の旅に出た。

当時、長英脱走の事実を知りながら、密かに母親と長英との面会の労を取ったのが仙台の侠客・丸屋忠吉である。
その後も、忠吉は長英の逃亡を支援し、博徒仲間の連絡網を使って長英の逃亡を手助けした。まさに侠客の名に値する博徒である。

※上の写真は丸屋(鈴木)忠吉の墓である。仙台市若林区成田町の冷源寺の境内にある。

※下の写真は忠吉が仙台に相撲巡業に招いた相撲取り(磯五郎)と行司が巡業中に死亡したため、忠吉が二人のために建立した相撲取り(大きい方の墓)と行司(隣の小さい墓)の墓である。

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年金支給延長70歳超を検討する政府

70歳超へ年金受給繰り下げ制度検討の新聞記事が話題になっている。現在は繰り下げ可能年齢は66歳から70歳まで。70歳になればそれ以上繰り下げできない。そのため政府は支給延長を考えている。理由は少子高齢化の年金の対処である。

65歳から70歳まで5年間支給繰り下げすると年金額は42%増加する。年金相談で4割強の利子が増えると説明する人もいる。しかし全く銀行預金とは違う。年金は元本保証がない。70歳繰り下げすると約12年後の「82歳」到達で65歳支給額を超える。それまでに死亡すればマイナスである。

70歳からは増加率がアップする。5年で60%程度となるだろう。両方で倍額になるにしても、75歳受給開始で収支分岐点は約90歳になる。あまり意味ある選択ではない。

なぜ政府はこれを検討するのか?現在の65歳支給開始を68歳、70歳まで延長したいためである。現制度の65歳支給が完成するのはあと8年後である。それまでに国民の納得を得たいのだろう。

一方でGPIFの運用益が7兆円を超えたと言われる。国内外株高の含み益である。含み益は利益確定しなければ、年金に利益額を利用できない。含み益の利益確定とは、含み益のある株を売却しなければならない。現在、株高ではあるが、株高のため、金融緩和と理由をつけて、日銀はETF投資で買い支えているが、もう限界説が出ている。今は年金の利益確定ができない。利益確定、即ちGPIFが株売却すれば、株価が暴落する。含み益は絵にかいた餅である。

しかし年金支給額を抑えなければならない。政府は過去5年間で年金給付額削減を実施した。削減額は「特例水準解消」で1兆2,500億円、「マクロ経済スライド」で4,500億円、「0.1%の物価変動」で500億円、合計1兆7,500億円。こちらは現実の給付額の削減だが、この程度では解決にはならない。

従って、年金支給年齢の引き上げが喫緊の課題となっている。一年、年金支給を引き上げすれば1年分の年金額が削減できる。しかし、その影響は高齢者の生活を直撃する。来るか、来ないかわからない北朝鮮ミサイルの防衛対策より、将来高齢者の不安が確定視された現在、国民の年金救済の方が先でないか?