兵藤恵昭の blog

団塊世代の社会保険労務士。趣味は温泉と博徒の墓巡り。思いついたことを書いています。

無宿浪人・平手造酒という人

ヤクザの用心棒・平手造酒(平田深喜)は皆さんも良く知っているだろう。三波春夫大利根無情、「佐原囃子が聞こえ来る。思い出すなぁ、お玉ケ池の千葉道場、平手造酒も今じゃ、やくざの用心棒、人生裏街道の枯れ落ち葉・・・」のセリフで有名である。

平手造酒は、天保15年(1844年)8月6日、飯岡助五郎と笹川繁蔵との闘いに笹川繁蔵の助っ人として参加、闘死した。講談、浪曲「天保水滸伝」の名脇役である。この闘いは飯岡方50数名、笹川方20名あまりだったが、笹川方は準備周到で、死んだのは造酒ひとりのみだった。

(別 名) 平田深喜、または平田三亀
(生没年) 生年不詳~天保15年(1844年)8月7日
      享年37歳前後

平手造酒は元仙台藩士あるいは元紀州藩士とも言われる。流浪の末、下総国香取郡松崎(現・神崎町松崎)の名主・山口左衛門宅に身を寄せ、剣道道場を開いた。そこで博徒の親分笹川繁蔵と知り合い、用心棒になった。

平手造酒は喧嘩、斬り合いの末、翌日に死んだ。今もその死体見分書写しが飯岡町歴史民俗館に残っている。見分書による死体の状況は下記のとおりである。
1.天窓に長さ6寸程の十文字切り傷、長さ1寸程他に3ケ所。
2.右の肩、長さ2寸程、左の肩、3寸程。
3.腕に長さ2寸程の切り傷3ケ所。
4.左の脇腹から心中にかけて長さ8寸程、同膝に長さ3寸程の切り傷。
都合11ケ所あり、繁蔵宅前に倒れており、家に入れて、医者が手当も死亡との記載がある。

「実録天保水滸伝」著者野口政司の伝えによると、野口氏の家の隣の岩瀬家が笹川繁蔵の子孫で、野口氏の祖母の話は「平手造酒は痩せ男で、顔色悪く、斬られたときは腸が飛び出ていた。」という。

大利根無情の「止めてくださるな妙心殿、落ちぶれても平手は武士。男の散り際だけは知っております。どいて下され、行かねばならぬ。」のセリフのようにまさに無情の死であった。

笹川事件は、御用を務める二足草鞋の助五郎が繁蔵召捕御用書状を持って、殴り込みをかけたため、のちに飯岡周辺の村に対して、費用が徴収され、村民の評判は良くなかった。

旧飯岡村は上州高崎藩8万2千石の飛び地領の一部で、石高は17ケ村の合計で5,619石あり、現在の銚子市全体を占めている。治安管理は銚子陣屋の支配下にあった。

一方、旧笹川村も伊勢の津藩の飛び領であり、諸家分知領内で実質無警察状態、治安は悪く、博徒が活動しやすい地域であった。

事件から3年後、弘化4年(1847年)、笹川繁蔵は飯岡助五郎手下の闇討ちにより斬殺される。その後、昭和7年(1932年)、銚子町で道路工事中、繁蔵の胴体が発見され、翌年に首塚が発見された。繁蔵の縁者が遺骨を引き取り、100年振りに故郷の笹川に戻った。

神崎町松崎の心光寺に平手造酒が身を寄せた名主が建てた墓がある。
墓石には、戒名「儀刀信忠居士」、「天保15年甲辰8月16日」、「平田三亀の墓」と彫られている。下記をクリック。
(参照)心光寺の平田三亀の墓

※ブログ内に下記の記事もあります。参照してください

(参照)悪者博徒の代表・飯岡助五郎と言う人

YouTube 三波春夫大利根無情」

www.youtube.com


下の写真は笹川(現・香取郡東庄町)の延命寺にある平手造酒の墓。

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白波五人男の盗賊・日本左衛門という人

白波五人男『問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放たれ、身の生業も白波の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊の噂、高札に・・・』と大見えを切った大泥棒「日本駄衛門」が有名である。この日本駄衛門は実在の盗賊「日本左衛門」がモデルである。
 
日本左衛門は尾張藩遠州地区の七里役(藩専用の飛脚で、7里を走り次に渡す飛脚、足軽)濱島富右衛門の子として生まれた。若い頃から放蕩を繰り返し、20歳のとき、親に勘当された。
 
23歳頃から盗人稼業に入り、200名ほどの盗賊団の頭目になり、近隣諸国を荒らし回った盗賊である。その被害は14件、2,622両余りと言われている。
 
容貌は、175cmほどの長身、鼻筋がとおり色白で、顔に5cmほどの切り傷があった。盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を手配して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃亡するという用心深さであった。
 
押し込むときは、手下50~60人を使い、提灯30帳を灯し、押し入った家族全員を縛り上げ、金の置き場所へ案内させ、強奪した。時には嫁や下女たちまで狼藉したとあり、かなり荒っぽい盗賊団であった。
 
日本左衛門本人は直接に手を下さず、時には金箱を砕いて包みから、難儀ある者に施したとも、盗みはすれど非道はせずと手下に説いたとも言われている。
 
(本名)  濱島 庄兵衛
(生没年) 享保4年(1719年)不詳~延享4年(1747年)3月11日
      盗賊で手配、京都町奉行に自首、獄門。享年29歳
 
延享3年(1746年)9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣された。これにより盗賊団の幹部数名は捕縛されたが、頭目の日本左衛門は逃亡した。
 
この騒動で、地元掛川藩城主の小笠原長恭は責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相楽藩の本多忠如も福島県の泉に移された。
 
日本左衛門は、伊勢国古市で自分の手配書が出回っている噂を聞き、さらに遠国の安芸国宮島まで逃亡を図る。しかし宮島でも自分の手配書を目にして、もう逃げ切れないと観念した。当時、手配書は親殺し、主殺しの重罪に限られ、盗賊としては日本初の手配書であった。
 
日本左衛門は延享4年(1747年)1月7日、京都町奉行永井丹波守尚方(大坂町奉行牧野信貞の説もある)に自首した。
 
大坂町奉行牧野に自首したとき、今日は休日だから明日来いと言われ、翌日、自首したとも言われている。捕縛後、江戸に送られ、北町奉行によって小伝馬町の牢に繫がれた。
 
刑罰は市中引き回しの上、獄門とされ、仲間の中村左膳(左膳は京都の公家に仕える武士であった。)6名とともに処刑された。刑は同年3月11日、遠州鈴ケ森(三本松)刑場で、その首は遠江国見附(現・磐田市付近)に晒された。
 
その首を愛人のお万が盗み出し、金谷宿、川会所跡の南にある宅円庵に葬ったと言われる。今も宅円庵には日本左衛門の首塚がある。その地には「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑が残っている。
 
日本左衛門が盗賊を働いたときは八代将軍吉宗の時代である。当時は享保の改革が進められ、庶民に倹約と重税が求められ、息苦しい生活が余儀なくされていた。そのため、表立って権力に逆らう日本左衛門が義賊として庶民に持て囃されたのであろう。
 辞世の句 「押し取りの人の心は重なりて、身に首縄かかる悲しさ」
 
ブログに関連の記事があります。よろしければ閲覧ください。
 
下の写真は磐田市内瑞雲山見性寺にある日本左衛門の墓。ここに処刑後に、首が盗まれた後の身体、衣服を埋めたと言われる。
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下の写真は島田市金谷の宅円庵にある首塚である。愛人お万が遠州見附から首を盗み、ここに埋めたと言われる。

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博徒・竹居安五郎の三つのお墓

竹居安五郎は、竹居村名主の男として生まれ、黒駒勝蔵の兄貴分でもあり、甲州を代表する博徒である。別名「竹居の吃安」とも呼ばれている。

安五郎が17歳の時、人斬り長兵衛の代参で兄手合い7人と一緒に相模国道了尊の祭りに賭場を張りに行った。しかし、到着が遅れたため他の一家に場所を取られ盆を敷くことができなかった。連れの仲間は諦めたが、安五郎は多数の親分衆相手に直談判し、甲州弁で火の出るような啖呵を切り、賭場を分けて貰った。この時、大いにどもりが出たので「吃安」のあだ名がついたと言う。

 

安五郎はどんなに有能な旅人でも「いびき」をかく者は身内にしなかった。理由は賭場開帳の際に忍びこんできた役人の足音がわからなくなること、また、逃亡の際には藪の中でも寺の縁の下でも眠らねばならず、いびきをかいていてはすぐに見つかってしまうためであるという。 

 

安五郎は嘉永4年(1851年)伊豆新島へ流罪となる。嘉永6年(1853年)68日の深夜、流人7人とともに島抜けに成功した。島抜け後、伊豆国博徒・大場久八の手助けで甲州に戻った安五郎は、黒駒勝蔵らの子分を得て一家を構え、博徒に復帰した。しかし、関東取締出役や石和代官に追われ、さらには地元博徒の国分三蔵、祐天仙之助らとも敵対した。

ついに文久元年(1861年)国分三蔵、祐天仙之介らの奸計により石和代官に捕縛される。翌年3月には甲府堺町の牢に移され、牢内で死去する。子分から奪還されるのを恐れた役人に毒殺されたとの噂もある。享年52歳であった。

安五郎の墓所笛吹市内の寺院に三か所ある。それぞれの墓所の墓石に刻まれた没年月日、戒名・法名はすべて異なっている。

一つ目は、笛吹市八代町竹居にある浄源寺である。八代町竹居は安五郎が生まれた村である。浄源寺墓石の没年月日は文久2年(1861年)217日と刻まれている。甲府町年寄「坂田家御用日記」によれば、同年217日は安五郎が捕縛され、入牢した年月日である。入牢した日を死亡日と判断し、記されたものと考えられる。

二つ目は、笛吹市石和町唐柏にある常在寺の墓石である。常在寺の墓石には嘉永7年(1854年)125日と刻まれている。常在寺の墓石は安五郎の子分の石原市五郎が建てたものである。墓石に刻まれた没年月日は、安五郎が新島を脱出して甲斐に潜伏していた時期にあたり、役人の追跡をかかわすための偽装工作として墓石を建てた可能性がある。

三つ目は、笛吹市石和町市部の仏陀禅寺の墓石である。仏陀禅寺の墓石には文久2年(1861年)106日の没年月日が刻まれている。仏陀禅寺の案内板によれば、安五郎の墓石は元々「牢屋に近い臨済宗祥雲山接慶院」に存在し、その後、接慶院が廃寺となり、昭和41年(1966年)仏陀禅寺に移転され、平成13年(2001年)改修されたと言う。「坂田家御用日記」によれば、文久2年(1861年)312日には安五郎は石和代官に捕縛され、すでに入牢しており、その日までの生存が確認されている。従って、捕縛され、入牢してから8ケ月後にあたる仏陀禅寺の文久2年(1861年)106日死去の没年月日が最も蓋然性が高いと考えられる。
 
ブログに関連の記事があります。よろしければ閲覧ください。
 
 ※下記の一番下の写真は、一つ目の浄源寺の墓石である。戒名は「鐘嶽玄微居士」と刻まれている。
※下記の上の写真は、二つ目の常在寺の墓石である。戒名は「心誠院諦吾日道信士」と刻まれている。
※下記の真ん中の写真は、三つ目の仏陀禅寺の墓石である。砲弾の形をした墓石とお地蔵さんが並んでいる。砲弾形の墓石には戒名「心岳宗安禅定門」と刻まれている。
 
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仙台の博徒・丸屋忠吉という人

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仙台の侠客・丸屋(鈴木)忠吉を知っている人は少ない。

丸屋忠吉は幕末博徒の大前田英五郎、大場久八、相模屋政五郎と並んで、全国的に名を知られた博徒である。庶民的には国定忠治清水次郎長が講談で有名だが、当時の大物博徒・親分とは前者の博徒を指すのが一般的である。

蛮社の獄で捕縛された蘭学者で医師・高野長英が江戸の伝馬町牢屋敷を火災に紛れて脱走した。その長英が故郷の奥州・水沢に住む母親に一目会うため、東北へ逃亡の旅に出た。

当時、長英脱走の事実を知りながら、密かに母親と長英との面会の労を取ったのが仙台の侠客・丸屋忠吉である。
その後も、忠吉は長英の逃亡を支援し、博徒仲間の連絡網を使って長英の逃亡を手助けした。まさに侠客の名に値する博徒である。

※上の写真は丸屋(鈴木)忠吉の墓である。仙台市若林区成田町の冷源寺の境内にある。

※下の写真は忠吉が仙台に相撲巡業に招いた相撲取り(磯五郎)と行司が巡業中に死亡したため、忠吉が二人のために建立した相撲取り(大きい方の墓)と行司(隣の小さい墓)の墓である。

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年金支給延長70歳超を検討する政府

70歳超へ年金受給繰り下げ制度検討の新聞記事が話題になっている。現在は繰り下げ可能年齢は66歳から70歳まで。70歳になればそれ以上繰り下げできない。そのため政府は支給延長を考えている。理由は少子高齢化の年金の対処である。

65歳から70歳まで5年間支給繰り下げすると年金額は42%増加する。年金相談で4割強の利子が増えると説明する人もいる。しかし全く銀行預金とは違う。年金は元本保証がない。70歳繰り下げすると約12年後の「82歳」到達で65歳支給額を超える。それまでに死亡すればマイナスである。

70歳からは増加率がアップする。5年で60%程度となるだろう。両方で倍額になるにしても、75歳受給開始で収支分岐点は約90歳になる。あまり意味ある選択ではない。

なぜ政府はこれを検討するのか?現在の65歳支給開始を68歳、70歳まで延長したいためである。現制度の65歳支給が完成するのはあと8年後である。それまでに国民の納得を得たいのだろう。

一方でGPIFの運用益が7兆円を超えたと言われる。国内外株高の含み益である。含み益は利益確定しなければ、年金に利益額を利用できない。含み益の利益確定とは、含み益のある株を売却しなければならない。現在、株高ではあるが、株高のため、金融緩和と理由をつけて、日銀はETF投資で買い支えているが、もう限界説が出ている。今は年金の利益確定ができない。利益確定、即ちGPIFが株売却すれば、株価が暴落する。含み益は絵にかいた餅である。

しかし年金支給額を抑えなければならない。政府は過去5年間で年金給付額削減を実施した。削減額は「特例水準解消」で1兆2,500億円、「マクロ経済スライド」で4,500億円、「0.1%の物価変動」で500億円、合計1兆7,500億円。こちらは現実の給付額の削減だが、この程度では解決にはならない。

従って、年金支給年齢の引き上げが喫緊の課題となっている。一年、年金支給を引き上げすれば1年分の年金額が削減できる。しかし、その影響は高齢者の生活を直撃する。来るか、来ないかわからない北朝鮮ミサイルの防衛対策より、将来高齢者の不安が確定視された現在、国民の年金救済の方が先でないか?
 
 
 
 

江戸時代の自爆テロ要員「捨足軽」

イスラム国家での自爆テロ事件が絶えない。最近では子供、女性も自爆テロ要員になっているという。なぜ平和を愛するムスリムが、自分も含め、多くの人間の命を奪うのだろうか?美しい菊を愛でながら、殺人も辞さない刀を尊ぶ日本人を理解できない米国人や外国人の思いも同じかもしれない。
 
わが国の「太平の世」と言われる江戸時代にも、自爆攻撃をする「捨足軽」というテロ要員に近い戦闘員がいたことはあまり知られていない。
 
時は、1844年天保15年の長崎のこと。オランダ軍艦パレンバン号が、オランダ国王ウイレム二世の開国勧告親書を将軍に奉呈するため長崎港に入港していた。
 
いわゆる「鎖国」時代、唯一の国際貿易港長崎の防衛は、長崎奉行の指揮下に、福岡黒田家と佐賀鍋島家が1年交代であたり、それぞれ約1,500名ほどの戦闘要員士卒を提供していた。
 
この年、天保15年の警備担当黒田家中に「捨足軽」と称する焔硝を小樽に詰めて肌身につけた80人の自爆戦闘員が、万が一に備えて待機していたという。もう一方の鍋島家中は非番であったが、やはり同じような自爆戦闘員「捨足軽」がいつでも出動できるように準備していたという。
 
それより40年ほど前、文化5年(1808年)、イギリス軍艦フェートン号が、オランダの国旗を掲げ、長崎に来航した。その際、オランダ出島駐在のオランダ人を人質に取り、幕府側に薪水、食料供給を強要し、不法に長崎に入港した事件があった。
 
シーボルト日記には、この時、長崎町年寄(最高上級町人の役人)の高島茂紀が、衣装の下に80ポンドの火薬を隠し持って、フェートン号に乗り込み、退去の交渉を行ったと書かれている。高島はフェートン号艦長のペリュー卿と艦長室で直談判し、無事に解決したとの記載がある。
 
これを機会に、町役人の警備に代わって黒田家、鍋島家の武士が前面に出て、両家が長崎出島の警護を任された。その警護はいざとなれば、外国船とともに自爆覚悟の警備の必要性から「捨足軽」制度が設置された。公儀のために自己犠牲をいとわないことが、日本人の特質と考えられていたのだろう。
 
この事件で長崎奉行松平康英は、不祥事の責任を取って、切腹した。更に警備担当の佐賀藩主鍋島斉直は100日の逼塞謹慎を幕府より命じられた。また、この謹慎により、直接の警備担当の鍋島藩士数人が切腹したと言われている。

うつ病の尾張藩士小山田勝右衛門という人

尾張藩主側近である御小納戸職の職務記録の「御小納戸日記」にうつ病に罹った藩士の記録が載っている。

それは尾張在勤の御小納戸小山田勝右衛門高明という藩士である。小山田は家禄150石をうけ、藩主の側近として藩主の日常生活の下働きをする武士である。小山田は病気がちであり、いわゆる「気分不快引籠」つまり塞ぎ込み、引きこもるうつ病に罹っていた。そのため、天明8年(1788年)正月から上司の御小納戸頭取を通じて、欠勤届を出す日々が多くなった。その後、月の半分は欠勤する月が夏まで続いた。

御小納戸職の最上級の上司側用人らは、小山田の病状を気にかけ、城内勤務の仕事から、極力気分転換できる出張の仕事を与えている。この年の1月、京都の建仁寺門前町で大火災が発生、九条家、故近衛家など尾張藩親戚の公卿衆への火事見舞いのための使者として京都出張である。2月4日に名古屋を出発、同月8日に京都に到着、三条大橋の柊屋万太郎の旅宿に滞在し、2月12日に名古屋に帰着している。単にお見舞いの金品を届けるだけで、公卿衆に面会する必要もなく、気楽な仕事であったようである。

次に、小山田は御深井御庭の弁財天への代参の仕事を命ぜられている。5月9日に弁財天の神事があり、小山田が藩主の名代として参詣している。弁財天参詣のお礼として、藩主及びその家族あてにお礼の金品を預かり、藩主に進上している。これらは「うつ病」的病状の小山田にとってやりやすい仕事であり、失敗もなく、小山田の周囲の同役が積極的に支援して、このような簡単な仕事をさせていたのだろう。

同年6月23日、小山田の実弟尾張藩の医師を務めていた浅井万右衛門が病死した。これを受けて、小山田のうつ病もさらに悪化、進行し、再び城内勤務の仕事も休みがちとなった。

小山田は、8月23日、江戸下屋敷戸定詰足軽頭に任命される。この転役により、小山田は尾張在勤から江戸在勤になった。その理由、目的は江戸での転地療養により、医療最先端地の江戸で、良医に小山田の病気の診察をさせるためであった。本人の周囲の同役、藩当局も本人の病気を認め、必死で本人を支援している。まさに温情ある措置である。

その後、江戸での療養の小山田の経緯は記載されていないが、おそららく病気も改善し、江戸から名古屋に戻されているのだろう。享和3年(1803年)死去し、長男の新之助が跡目を継ぎ、馬廻組を拝命している。さらに新之助は犬山成瀬氏の寄合となり、文政10年(1827年)死亡している。小山田家の存続は、上司、同役、藩当局の支援があって初めて可能となる。今も昔も「うつ」に向き合うには周囲の支えが必要であることはなんら変わらない。

明治最後の仇討・臼井六郎事件

浅田次郎の小説に明治最後の仇討の話がある。しかしこれはフィクションで現実の話ではない。現実にあった話は、秋月藩の執政心得臼井亘理夫妻が殺害され、実子の臼井六郎が明治13年に仇討した事件がある。この話は「幕末史談会速記録」に記載されている。

臼井亘理は秋月藩士として生まれ、藩主の黒田長徳の側用人まで出世した。秋月藩は宗藩の福岡藩が親幕派の公武合体派であったため、亘理もその流れの中にいた。しかし、側用人の主席公用人執政心得として京都で活動を続ける間に、長州討伐失敗、大政奉還の流れの中で、亘理の考えも親幕派から新政府にくみする立場に変更した。このことは国許の反主流である親幕派組織「干城隊」の恨みを買うこととなった。

京都から国許に戻った臼井亘理は自宅において、明治元年5月23日の深夜、干城隊5~6人ほどの暗殺隊が臼井亘理を寝室で殺害、さらに夫の異変に気付いた妻も惨殺した。その当時、実子臼井六郎はまだ9歳の幼少であった。

六郎は父母が殺されてから、復讐のため、遊学を理由に東京へ上京した。上京後は山岡鉄舟内弟子となり、ひそかに親の仇の犯人探しを行った。その結果、東京上等裁判所の判事である一瀬直久を探しだした。一瀬は父暗殺時、干城隊の伍長であり、当時の名を山本克己と言った。暗殺隊の中心人物でもあった。一瀬が親の仇と知った六郎は裁判所付近で待ち伏せをしたがなかなか姿を現さない。そのうち、旧秋月藩主の黒田長徳邸に毎日のように元藩士が集まり、その中に一瀬もいる情報を得て明治13年12月17日、六郎は黒田邸に足を運んだ。

黒田邸には六郎の旧友2人おり、3人で2階の座敷で話し込んでいると、黒田家の家扶人が客人と帰ってきて、隣室で用談を始める。その客こそが一瀬であった。一瀬が用事で1階に下りたので、六郎も小用を理由に後をつけ、玄関の屏風に隠れて、一瀬を待った。

一瀬が戻ってくると、その背後から襟をつかみ、「父の仇である。覚悟せよ。」と叫び、短刀でのどを突き刺した。しかし一瀬は襟巻をしており、かすり傷しか負わなかった。続いて胸を刺したが、止めにならず、馬乗りになって、一瀬の首を切り落とした。凶器とされた短刀は父・亘理が襲撃されたときに父が手にしていたものであった。一階で騒動、叫び声は2階にも聞こえていたはずだが誰も下りてこない。六郎は血に濡れた羽織と足袋を脱ぐと、その足で最寄りの警察署に自首した。

一時代前なら立派な仇討だが、明治6年2月「仇討禁止令」が布告されていた。仇討は犯罪とされていたが、当時の新聞は「最後の仇討」として世間の注目をうけ、詳しく報道された。

明治14年9月、東京裁判所は「禁獄終身」の終身刑の判決を下し、六郎は小菅集治監で服役した。しかし大日本帝国憲法公布による大赦によって、六郎は明治23年に放免された。その後、妹の婚家のある門司へ移転し、結婚して饅頭屋を営む。次いで鳥栖で駅前待合所を兼ねた店舗を開き、大正6年、58歳で生涯を閉じた。

盗賊・田舎小僧という人

前回、ブログで鼠小僧について書いた。今回、取り上げるのは、鼠小僧ほど有名ではないが、同じく大名屋敷専門の盗賊・田舎小僧である。田舎小僧は、同時期の稲葉小僧と混同されるが、両者は同じ盗賊なのかは、諸説あって、定かではない。本人は「自分は稲葉小僧と名乗ったことはない。また田舎小僧と呼ばれているが、これも自分で名乗った異名ではない。」と述べたという。なぜ、田舎小僧と呼ばれるかは定かではない。鼠小僧ほど有名でもなく、またあか抜けもしていないためと言われている。

盗賊生活期間は鼠小僧が10年に対して、田舎小僧は2年、盗んだ金子は141両、このうち100両は上野寛永寺から盗んだもので、大名屋敷から金銭の盗みは少なく、衣服、置物、小道具が主な盗品である。忍び込んだ大名屋敷も20軒程と、鼠小僧と比較してかなり小者である。鼠小僧が横綱なら、田舎小僧は幕下程度と言える。

(盗賊名) 田舎小僧   (本名) 新助
(生没年) 宝歴2年(1752年)~天明5年(1785年)  享年34歳
       天明5年9月、小塚原刑場で獄門処刑

田舎小僧は本名新助と言い、武州足立郡新井方村(現・埼玉県川口市)の百姓市左衛門の子として生まれた。幼くして江戸神田明神下の同朋町の染物屋に年季奉公に出た。

安永2年(1773年)、22歳で年季が明けて暇を貰ったのち、下谷坂本2丁目の又兵衛に奉公。その後無宿になり、悪の道に足を踏み入れた。武州豊島郡金杉村(現・東京都港区)の百姓家に忍び込み、村人に見つかり、捕縛される。そして入墨の刑を受け、親元の新井方村に引き渡された。その後、江戸、上州を転々と放浪するも、稼ぎが少ないのを嫌って、江戸に戻り、天明4年7月から、大名屋敷へ盗みを働くようになった。

新助は、2年間に盗んだ盗品を大宮宿の盗品買い取り業者に売り払うが、盗品を鑑定する知識もなく、また行き当たりばったりの盗みで、銀製品など貴重品も安く買いたたかれたようだ。これら盗品も売値で50両余りに過ぎなかった。

大名屋敷への侵入ルートは鼠小僧と同様、屋敷の表門近くから、塀、屋根を乗り越え、屋敷内に侵入した。大名屋敷の表門付近は、武士、商人の出入りが多く、かえって目立たず、門をくぐらずに素早く屋根伝いに侵入すれば、簡単に忍び込むことができた。

田舎小僧は、天明5年9月16日、一橋徳川家の屋敷に盗みに入ろうとして、一橋家の屋敷門際の土手から塀を乗り越えたところを夜回りの中間者に見つかり、捕えられた。町奉行所では厳しい尋問、笞打、石抱き、海老責などの拷問を受けて、すべての犯行を自白した。そして北町奉行・曲淵甲斐守景漸より、「重々不届至極」の理由で江戸引き回しの上、獄門の刑を受ける。享年34歳であった。

義賊・鼠小僧次郎吉という人

鼠小僧といえば、時代劇ファンでなくとも名前ぐらいは知っているだろう。100軒以上の大名屋敷に忍び込み、3,000両以上の金子を盗み出し、義賊として芝居や講談で取り上げられた。盗賊の中でもヒーロー的存在である。しかし、その実体、素顔はあまり知られていない。

次郎吉が生まれたのは、寛政9年(1797年)江戸新和泉町(現在の中央区人形町3丁目)、父親は定治郎、歌舞伎芝居の出方(案内、接待係)を務めていた。出方とは劇場内の管理責任者で、仕事柄やくざ者とも付き合いがあった。定治郎は片目が不自由で、「めっかち定」と呼ばれた。次郎吉もひどい近視で、身長は5尺に満たない小男であった。父親は次郎吉が処刑される3年前に亡くなっている。

(盗賊名) 鼠小僧次郎吉   (本名) 次郎吉(治郎吉とも言う)
(生没年) 寛政9年(1797年)~天保3年(1832年)  享年36歳
       小塚原刑場で獄門処刑。

次郎吉は、14歳で神田紺屋町の箱職人に奉公に出るがバクチに没頭。16歳で親元に戻り、箱職人の手間賃雇いになるも、バクチは収まらず、鳶の部屋に出入り、代役も務めた。27歳頃、遊びやバクチの金欲しさに武家屋敷に盗み入るようになる。武家屋敷は、外囲は厳重でも中に入れば、警備は緩く、盗みやすい。特に奥女中の部屋に男は入れず、存分に盗みができた。治郎吉は大名屋敷1軒あたり、平均して30両余りの金を盗んだことになる。テレビに出てくるような金蔵から千両箱を盗む盗賊はいない。リスクが多すぎるからである。

次郎吉は盗みに入るとき、塀を乗り越えるだけでなく、演技力があり、門番に「だれだれに面会の用事がある」と嘘を言って、堂々と屋敷内に入り、盗みをしている。被害にあった大名には、美濃大垣藩戸田采女正の屋敷のように一度に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷のように1年おきに数回も度重なり盗まれた大名もいる。一方では下野宇都宮戸田因幡守の屋敷のように、警護が厳しく、奥向きのしまりも固く、金を盗むことのできなかった大名もあった。なかには財政事情が悪く、奥向きの手持ち金がなかった大名屋敷もあったかもしれない。

盗んだ金は、吉原、バクチで使い、バクチで丸裸になった人には惜しみなく金銭を与えた。また、関係した女たちに難が及ばないよう、逮捕前に離縁状を渡し、一人住まいの女には、大家や近所に贈り物をし、細かい気配りをしている。

次郎吉は松平宮内小輔の屋敷で捕えられ、今にも殺されようとしたとき、「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受けてから処刑されたい。」と願い出た。その理由を聞くと、「俺が盗みに入った屋敷では、その責任をとって切腹した人もいる。金銀が紛失したので疑われている人も多い。奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい。」と言った。

ひとくちに白状と言っても10年以上もさかのぼるが、次郎吉は記憶力も良く、お詫びの気持ちもあり、可能な限り詳しく犯行を供述した。これも次郎吉が義賊と言われる理由の一つかもしれない。捕まった時はろくな家財道具も金も残さなかった。獄門引き回しの時も、薄化粧の口紅姿で、悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えていたという。

鼠小僧次郎吉の墓は両国回向院の墓が有名である。そのほかにも愛媛県松山市岐阜県各務原市にも墓がある。これらは義賊次郎吉に恩義を受けた人たちが建てた墓と伝えられている。
写真は愛知県蒲郡市JR蒲郡駅近くの委空寺にある鼠小僧次郎吉の墓。

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死出の旅の往来手形・勘助、草津の旅

高橋敏氏は、著書「江戸の平和力」で、江戸時代の行き倒れ死亡者に対する対応を評価し、江戸時代は予想以上の安心社会であると述べている。内容は、江戸時代の草津温泉療養の旅に出た庶民の旅先での病死の顛末である。

弘化4年(1847年)7月22日、豆州君沢郡長浜村(現・沼津市)の「勘助」が草津温泉六兵衛の宿で病死した。勘助の草津への旅は、温泉三昧の湯冶の旅でなく、らい病(ハンセン病)にかかり、大野村宇左衛門に付き添われ、2月3日出立、13日に草津の湯に到着、草津を死に場所と覚悟した死出の旅だった。

草津の湯に入湯2ヶ月後、宇左衛門は、勘助を宿主の六兵衛に託して、帰村した。帰るに際して、勘助の最後は親類縁者承知しており、旦那寺発行の往来手形を持参しているので、死後の国元への通知は不要であり、往来手形規程により、草津の作法による簡便な処置をお願いしたいと言い残した。

勘助は、宇左衛門が帰村して、3ヶ月後に死亡した。葬儀費用は、勘助からの預かり金1両2分と途中帰村した宇左衛門が託した1両2分の合わせて3両で賄われた。勘助の故郷への死骸の運送も検討されたが、宇左衛門の申し出もあり、死後の扱いは草津温泉光泉寺が請け負い、この光泉寺に埋葬された。

勘助の出身地の長浜村は伊豆の内浦湾中央に位置する漁村である。勘助は当時24歳、人別帳によれば、家族は、兄嘉七(39歳)、妻こう(31歳)、姪りん(3歳)と母きみ(57歳)、姉ちま(33歳)の6人家族である。家族縁者は勘助の行く末を案じて、相談のうえ、草津入湯の旅を決めた。そして、路銀を出し合い、草津へ向かわせた。勘助死亡の時、勘助が所持していた3両は大金である。

勘助の旦那寺安養寺発行の往来一札には、家族の思いを込めて筆で次のように書かれていた。「途中病気か、病死したときは、どうか現地のお慈悲ある作法で処置してください、こちらへの連絡には及びません、ついでがあったときでもお知らせください。」

草津温泉で病死した勘助は、幕府法令を尊守して手厚く葬られ、往来一札を発行した国元の長浜村の安養寺に通知された。その結果、家族親類縁者によって地元でも法要が営まれている。

現在、孤独死が問題となっているが、江戸時代、行き倒れ死亡者は、それなりの処置がされ、遠方の縁者に対しても連絡通知され、相応の事後処理をする安心社会のシステムが構築されていたのである。

土佐藩御用達の火消し・相模屋政五郎という人

相模屋政五郎という侠客を知っている人は少ない。博徒ファン仲間でもかなりメジャーな人物である。別名「江戸の相政」ともいう。「相政」にはもう一人、佐渡へ流罪となった渡世人の面倒を見た博徒の親分「佐渡相ノ川の政五郎」がいる。そのため「相模屋政五郎」は「江戸の相政」と呼ばれていた。

政五郎は博徒でなく、本業は口入屋で、新門辰五郎同様、江戸の火消しである。土佐藩主山内豊熙(山内容堂の2代前の藩主)の時、土佐藩の火消し頭は神田白壁町の仙台屋与五郎であったが、あまり人気がなかった。そのため、江戸屋敷の留守居役が町奉行の遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)に相談、10名ほどの名を挙げ、この中から選んだらよいと言われ、その中から相模屋政五郎を選んだ。

この時、弘化3年(1846年)、政五郎は36歳、男盛りである。政五郎は、京橋の口入稼業の元締め相模屋幸右衛門の娘、お照に惚れられて、実家の口入屋大和屋の二男から相模屋に養子になったほどのいい男だった。

(侠客名) 相模屋政五郎  (改名) 山中政次郎(山内容堂から山中姓を貰う)
(生没年) 文化4年(1807年)~明治19年(1886年
       東京新富町で死去 享年80歳

政五郎は左の手の小指がなかった。天保4年(1838年)政五郎31歳のとき、大奥の役を勤める松平筑後守という人がいた。この人の子息に常盤橋の屋敷に呼ばれ、酒の盃を無理強いされ、宴会のもつれで、小指を斬りおとした。「あっしは芸人じゃアありやせん。人入れ稼業でござんす。」と火の出るような啖呵を切って、血だらけのままの小指を盃に入れ、それへ酒をついで返杯した名残である。晩年に、子分が喧嘩などすると、小指を見せて、「短気は損気という。俺はこの小指がないため、どれほど不自由したか知れない。」と言い聞かせたという。

元治元年からの京大阪江戸の騒ぎの後、大阪で慶喜公に置き去りにされた幕府歩兵隊が江戸に戻り、解散した。歩兵隊の中には全国から集まったならず者も含まれていた。この歩兵が江戸で辻斬り、夜盗に及ぶ者もいた。吉原で暴れ、逆に若い者に返り討ちに遭う者もいた。これを見た政五郎は、「元公儀歩兵の方で、江戸から旅に出られる方には草鞋銭を差し上げる」と伝言して、誰彼の差別なく、一人に2分づつ渡し、約600両の大金を配った。

東京の野方町江古田に「江古田の勘之」という古い渡世人がいる。この渡世人が晩年、草鞋をはいて来る相政身内の若い者の話をしている。「草鞋をはくのは渡世人の修業だから、愚にもつかない三ん下も来るが、相政の身内で、これは屑だなという若い者はひとりも来なかった。身なりもしゃんとしており、仁義などもこれぽっちの隙も無かった。」と褒めていた。

明治5年(1872年)山内容堂が46歳で病死する前年に、容堂が柳橋の名妓「お愛」を落籍するときには、その交渉を政五郎が行った。旦那は山内容堂、口を利くのが東京随一の相政だから、お愛の両親は二つ返事で承知した。だが、話がまとまってみると、少なくとも千両と踏んでいたお愛の引出物として容堂から出たのは、たったの二百両、当時の正金で150円足らずと、名槍一筋だったので両親はびっくりした。「明治の今となっては、槍はすりこぎと同じでがす」と言ってべそをかいたという。お愛は容堂死亡後、落ちぶれて、日蓮宗の行者の女房となった。

山内容堂死亡のお通夜の席で、政五郎が殉死しようとした時、板垣退助が、「おやじ、御隠居の恩を受けたのは貴様一人ではない。みんなが貴様のように追い腹を切ったらあとはどうなる。あとはどうなってもいいと言うなら、俺がここで見ていてやる。見事に腹を切れ」と怒鳴ったので殉死を果たさなかったのは有名な話である。