兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

死出の旅の往来手形・勘助、草津の旅

高橋敏氏は、著書「江戸の平和力」で、江戸時代の行き倒れ死亡者に対する対応を評価し、江戸時代は予想以上の安心社会であると述べている。内容は、江戸時代の草津温泉療養の旅に出た庶民の旅先での病死の顛末である。

弘化4年(1847年)7月22日、豆州君沢郡長浜村(現・沼津市)の「勘助」が草津温泉六兵衛の宿で病死した。勘助の草津への旅は、温泉三昧の湯冶の旅でなく、らい病(ハンセン病)にかかり、大野村宇左衛門に付き添われ、2月3日出立、13日に草津の湯に到着、草津を死に場所と覚悟した死出の旅だった。

草津の湯に入湯2ヶ月後、宇左衛門は、勘助を宿主の六兵衛に託して、帰村した。帰るに際して、勘助の最後は親類縁者承知しており、旦那寺発行の往来手形を持参しているので、死後の国元への通知は不要であり、往来手形規程により、草津の作法による簡便な処置をお願いしたいと言い残した。

勘助は、宇左衛門が帰村して、3ヶ月後に死亡した。葬儀費用は、勘助からの預かり金1両2分と途中帰村した宇左衛門が託した1両2分の合わせて3両で賄われた。勘助の故郷への死骸の運送も検討されたが、宇左衛門の申し出もあり、死後の扱いは草津温泉光泉寺が請け負い、この光泉寺に埋葬された。

勘助の出身地の長浜村は伊豆の内浦湾中央に位置する漁村である。勘助は当時24歳、人別帳によれば、家族は、兄嘉七(39歳)、妻こう(31歳)、姪りん(3歳)と母きみ(57歳)、姉ちま(33歳)の6人家族である。家族縁者は勘助の行く末を案じて、相談のうえ、草津入湯の旅を決めた。そして、路銀を出し合い、草津へ向かわせた。勘助死亡の時、勘助が所持していた3両は大金である。

勘助の旦那寺安養寺発行の往来一札には、家族の思いを込めて筆で次のように書かれていた。「途中病気か、病死したときは、どうか現地のお慈悲ある作法で処置してください、こちらへの連絡には及びません、ついでがあったときでもお知らせください。」

草津温泉で病死した勘助は、幕府法令を尊守して手厚く葬られ、往来一札を発行した国元の長浜村の安養寺に通知された。その結果、家族親類縁者によって地元でも法要が営まれている。

現在、孤独死が問題となっているが、江戸時代、行き倒れ死亡者は、それなりの処置がされ、遠方の縁者に対しても連絡通知され、相応の事後処理をする安心社会のシステムが構築されていたのである。

土佐藩御用達の火消し・相模屋政五郎という人

相模屋政五郎という侠客を知っている人は少ない。博徒ファン仲間でもかなりメジャーな人物である。別名「江戸の相政」ともいう。「相政」にはもう一人、佐渡へ流罪となった渡世人の面倒を見た博徒の親分「佐渡相ノ川の政五郎」がいる。そのため「相模屋政五郎」は「江戸の相政」と呼ばれていた。

政五郎は博徒でなく、本業は口入屋で、新門辰五郎同様、江戸の火消しである。土佐藩主山内豊熙(山内容堂の2代前の藩主)の時、土佐藩の火消し頭は神田白壁町の仙台屋与五郎であったが、あまり人気がなかった。そのため、江戸屋敷の留守居役が町奉行の遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)に相談、10名ほどの名を挙げ、この中から選んだらよいと言われ、その中から相模屋政五郎を選んだ。

この時、弘化3年(1846年)、政五郎は36歳、男盛りである。政五郎は、京橋の口入稼業の元締め相模屋幸右衛門の娘、お照に惚れられて、実家の口入屋大和屋の二男から相模屋に養子になったほどのいい男だった。

(侠客名) 相模屋政五郎  (改名) 山中政次郎(山内容堂から山中姓を貰う)
(生没年) 文化4年(1807年)~明治19年(1886年
       東京新富町で死去 享年80歳

政五郎は左の手の小指がなかった。天保4年(1838年)政五郎31歳のとき、大奥の役を勤める松平筑後守という人がいた。この人の子息に常盤橋の屋敷に呼ばれ、酒の盃を無理強いされ、宴会のもつれで、小指を斬りおとした。「あっしは芸人じゃアありやせん。人入れ稼業でござんす。」と火の出るような啖呵を切って、血だらけのままの小指を盃に入れ、それへ酒をついで返杯した名残である。晩年に、子分が喧嘩などすると、小指を見せて、「短気は損気という。俺はこの小指がないため、どれほど不自由したか知れない。」と言い聞かせたという。

元治元年からの京大阪江戸の騒ぎの後、大阪で慶喜公に置き去りにされた幕府歩兵隊が江戸に戻り、解散した。歩兵隊の中には全国から集まったならず者も含まれていた。この歩兵が江戸で辻斬り、夜盗に及ぶ者もいた。吉原で暴れ、逆に若い者に返り討ちに遭う者もいた。これを見た政五郎は、「元公儀歩兵の方で、江戸から旅に出られる方には草鞋銭を差し上げる」と伝言して、誰彼の差別なく、一人に2分づつ渡し、約600両の大金を配った。

東京の野方町江古田に「江古田の勘之」という古い渡世人がいる。この渡世人が晩年、草鞋をはいて来る相政身内の若い者の話をしている。「草鞋をはくのは渡世人の修業だから、愚にもつかない三ん下も来るが、相政の身内で、これは屑だなという若い者はひとりも来なかった。身なりもしゃんとしており、仁義などもこれぽっちの隙も無かった。」と褒めていた。

明治5年(1872年)山内容堂が46歳で病死する前年に、容堂が柳橋の名妓「お愛」を落籍するときには、その交渉を政五郎が行った。旦那は山内容堂、口を利くのが東京随一の相政だから、お愛の両親は二つ返事で承知した。だが、話がまとまってみると、少なくとも千両と踏んでいたお愛の引出物として容堂から出たのは、たったの二百両、当時の正金で150円足らずと、名槍一筋だったので両親はびっくりした。「明治の今となっては、槍はすりこぎと同じでがす」と言ってべそをかいたという。お愛は容堂死亡後、落ちぶれて、日蓮宗の行者の女房となった。

山内容堂死亡のお通夜の席で、政五郎が殉死しようとした時、板垣退助が、「おやじ、御隠居の恩を受けたのは貴様一人ではない。みんなが貴様のように追い腹を切ったらあとはどうなる。あとはどうなってもいいと言うなら、俺がここで見ていてやる。見事に腹を切れ」と怒鳴ったので殉死を果たさなかったのは有名な話である。

悲劇の博徒・笹川繁蔵という人

「利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」講談、映画で有名な大利根月夜の舞台であり、天保水滸伝として、笹川繁蔵、用心棒・平田深喜(別名・平手造酒)と飯岡助五郎との大利根川の決闘は良く知られている。

笹川繁蔵の生家岩瀬家は、須賀山村の東南にある羽斗村(現・千葉県香取郡東庄町)で代々醤油と酢を醸造した旧家で、地元の富豪である。繁蔵は岩瀬家七左衛門の三男として生まれた。母親は地元で有名な美人で、繁蔵も色白の美男子であった。若い頃から力が強く、相撲好きで一時、江戸の千賀ノ浦部屋に入門した。

1年余りで故郷に戻り、常州芝宿の親分文吉の賭場に出入りし、博徒渡世に入る。繁蔵は、もともと家に金があり、度胸、金離れ良く、次第に子分も増え、親分の文吉の跡目を譲り受けた。

博徒名) 笹川繁蔵   (本名) 岩瀬繁蔵
(生没年) 文化7年(1810年)~弘化4年(1847年) 享年38歳
       飯岡助五郎子分3人によりビャク橋で闇討ち殺害。

(通称) 平手造酒     (本名) 平田深喜
(生没年) 生年不詳 ~天保15年(1844年) 享年31歳前後
       繁蔵、助五郎の大利根河原の抗争で闘死。

当初、笹川繁蔵と飯岡助五郎は友好関係にあった。二人の年齢が18歳も違い、繁蔵は、「飯岡のとっさん」と助五郎に従い、助五郎の妾の子堺屋与助の妻は繁蔵の紹介によるもので、裕福な繁蔵は二足草鞋の助五郎に何度も資金の融通をしていた。しかし、縄張りを拡大する繁蔵に危機感を持った助五郎は関東取締出役道案内の役目を利用して、繁蔵襲撃を計画した。

事前に計画を察知した繁蔵は毎晩、朝まで待機して、襲撃に備えた。天保15年8月6日早朝、飯岡一家は船三艘に約50人、陸路20人、合計70人で笹川を襲撃した。一方、事前準備万端の繁蔵側は人数では半分に満たないが、一気に反撃した。繁蔵の反撃の激しさで、助五郎側は4人の死者を出し、その死者を置き去りにしたまま、船で逃走せざるを得なかった。

一方、繁蔵側の死者は用心棒の平田深喜ひとりだけである。平田は紀州藩または仙台藩の元藩士と言われ、下総郡香取の鈴木何某との名前の道場に居候して、繁蔵と知り合い、繁蔵の用心棒として7年を過ごした。平田は江戸千葉道場の俊英と言われるが、それほど腕の立つ剣士ではなかったようだ。約2時間程の襲撃が終了した時はまだ息があり、翌日7日午前零時に絶命した。平田は、頭に十文字に切り傷、刺し傷3か所、右肩、左肩、腕に各2か所、わき腹、ひざ等、全部で11か所に切り傷、刺し傷があった。

襲撃後、繁蔵は役人の追手を避けるため、奥州に逃亡の旅に出る。それから2年後にひそかに笹川に戻った。飯岡助五郎の子、堺屋与助は隠密裏に繁蔵を動きを探り、弘化4年(1847年)7月の夜、与助ら3人によって、笹川のビャク橋のたもとで闇討ちで殺害される。二、三日後首のない死体が利根川から発見された。この暗殺が助五郎の指示によるものか、子分の独断によるものかはっきりしない。しかし、助五郎は繁蔵の首を、自分の菩提寺光台寺にひそかに葬むり、わざと戒名も付けず、土饅頭の上に石を一つ置いた。助五郎はさすがに良心に責めがあったのか、「俺が死んだら、この首塚の傍へ埋めろ」と言ったという。

繁蔵の愛妾のお豊は絶世の美人と言われ、繁蔵の死後、まだ若く、子分の羽斗の勇吉に身を任せた。そのため、勇吉は一家から爪はじきにされ、二人は笹川を脱して、江戸住まいをした。勇吉は、江戸でも身辺が危なくなり、お豊を捨てて大坂に高飛びの途中、沼津で目明しに捕縛された。勇吉はその後嘉永2年、江戸小塚ツ原で断首されたという。勇吉に捨てられたお豊は、故郷を忘れ難く笹川に戻り、繁蔵の身内がほとんど居なくなってからビャク橋のたもとに、繁蔵のために高さ3尺ほどの石碑を建てたという。

写真は笹川繁蔵の碑 千葉県香取郡東庄町笹川 延命寺にある。

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次郎長の兄貴分博徒・津向文吉という人

津向文吉は、駆け出しの頃の次郎長が喧嘩の仲裁をした相手方で、それを機会に次郎長の兄貴分となった博徒である。文吉は、温厚な性格で、男盛りの39歳で、八丈島に島流しになったため、あまり知られていない博徒である。しかし、細面で品のある二枚目の色男である。長年の流刑暮らしの結果、主たる抗争もなく、長寿を全うし、畳の上で生涯を終えた幸運な博徒でもある。
 
博徒名) 津向文吉    (本名)宮沢文吉
(生没年) 文化7年(1810年)~明治16年(1883年)  享年73歳
 
津向文吉は甲斐国鴨狩津向村(現・山梨県西八代郡市川三郷町)に生まれた。生家は代々村名主を務める宮沢家である。鴨狩津向村は甲斐と駿河を結ぶ富士川船運の物流拠点である。近くには竹居安五郎(通称吃安)の活動拠点である竹居村(笛吹村)があり、安五郎とは長い間縄張り争いの抗争を繰り広げた。
 
弘化2年(1845年)、甲州鰍沢で竹居安五郎との抗争があり、文吉は甲州博徒祐天仙之助と組んで、安五郎の食客で武士の桑原雷助を殺害した。また同じ年には駿河博徒・次郎長の叔父にあたる和田島太右衛門との間で出入りがあり、子分10人を引き連れて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出向いている。ところがこれが博徒・三馬政の計略であると知らされ、まだ当時駆け出しの次郎長の調停により、出入りは回避された。文吉はこれを機会に次郎長との関係を深め、兄弟分となった。
 
嘉永2年(1849年)の博徒取締により、文吉は捕縛され、流刑が決定する。同年4月から9月まで三宅島に逗留して、9月からは八丈島の末吉村に流された。その後、明治2年(1869年)の恩赦まで20年間を八丈島で流人として暮らした。八丈島では島の娘との間に男女二人の子供が生まれている。
 
津向文吉が八丈島に流刑となった2年後に、長年の抗争相手であった竹居安五郎も賭博の罪で流刑が決定する。安五郎の兄弟分である大場久八は、昔から懇意である韮山代官の江川太郎左衛門を通じて、安五郎の流刑先を八丈島から変更を依頼した。江川は、抗争博徒が同じ流刑地では色々治安上問題があるという理由をつけ、安五郎の流刑地は新島に変更された。もし、遠い八丈島からの流刑地変更がなければ、安五郎の新島からの島抜けは成功しなかっただろう。
 
文吉は、明治の恩赦後、本土に戻ると、すぐに清水次郎長のもとを訪れ、帰国の報告をしている。その後は、生地の鴨狩津向村で木賃宿の「つむぎ屋」を営む一方、八丈島で覚えた医者まがいのことをしながら余生を送ったという。
 
文吉は明治16年(1883年)10月5日73歳で死去した。市川三郷町の共同墓地に文吉の墓があり、大正10年(1921年)9月建立で、建立者は宮沢姓の二名の人物の名が記されている。文吉の墓に隣接して子分・飯窪定五郎の墓もある。文吉の戒名は「普顕院英山文雄居士」である。

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喧嘩しない大親分博徒・蕎麦亀という人

博徒というと国定忠治、黒駒勝蔵、清水次郎長などの名しか思いつかない人がほとんどだろう。しかし、世間的に名も知られていないが、博徒として歴史に名を残しても良い博徒がいる。歴史的有名人だけが優れているのではない。無名でも優れた博徒がいる。特に博徒は喧嘩を華とするため、抗争、喧嘩をしない博徒は歴史に残らず、忘れ去られることが多い。
 
そんな博徒の一人として、喧嘩をしないことを信条とし、大親分となった博徒・伊野亀吉がいる。この博徒については、増田知哉氏著書「侠客・博奕打ち物語」に記載されている。亀吉は、八王子、三多摩地区一帯を縄張りとする博徒で、江戸、甲州、伊豆、上州まで名を知られた博徒である。
 
博徒名) 通称・蕎麦亀   (本名) 伊野亀吉
(生没年) 天保7年(1838年)~明治32年(1899年)
       享年64歳で病死。
 
伊野亀吉は初め、甲州一の宮万兵平の子分となり、博徒の道に入る。亀吉25歳のとき、親分万平が死亡してからは、伊豆の大場久八の身内となった。明治になって大場久八も博徒から足を洗ったため、故郷の八王子に戻り、蕎麦屋を営む傍ら博徒稼業をして、徐々に子分たちも増えた。亀吉は腰の低い温和な親分で、いつもニコニコし、乞食が来ても「旦那」と呼んだという。
 
亀吉が言うには、「喧嘩などするとはどうしたことか、喧嘩して勝ったところで、殺してみたところで、それでどうなるわけではない。甲州近くのこの辺りは気の荒い所で、喧嘩が多いが、喧嘩にならぬように捌いてゆく。喧嘩すれば、逃亡とか、土地を失うことにもなる。喧嘩すれば仇にされるが、仇は博奕場にされる。なんの得にもならず、そんなことではいけない。」と言っていた。その証拠に亀吉の身体には喧嘩傷一つとしてなかったという。
 
亀吉も60歳近くになり、跡目を「曲七」に譲った。「曲七」の本名は内田七太郎と言い、本業が曲物屋だったところから曲七と呼ばれた。一方、亀吉は蕎麦屋を営み、晩年、「蕎麦屋の爺さん」と呼ばれた。ここの蕎麦の盛り一杯はよその二杯分あり、繁盛し、職人の給料もよそより高かった。
 
この爺さんがあるとき、曲七の所に立ち寄った。親分の曲七は留守で子分だけしか居なかった。子分たちが仲間内で博奕をやっていたので、久しぶりにやってみたいと言うと、子分たちが「どうぞ爺さん胴を取ってください。」と言われ、少し眼が悪いがやってみようとサイコロを振った。筒の外にサイコロが出ている。子分たちは「眼が悪いので気が付かないのだ」と思い、出た目に張る。これなら誰でも儲かると平気で続けた。そのうち爺さんが博奕で張った金を掻き集めて、ネンネコにくるんだ。子分たちが、「勝負しないで持って行かれては困ります。」と言うと、爺さんは、「この馬鹿野郎、俺が眼が見えないと思っているのか、そんな根性でどうなる。金は俺が持って行く。曲七が帰ったら、早速、盃を返せと言っておけ。」といって帰った。
 
驚いた子分たちは平岡という親分の兄貴分に、親分に知れないように爺さんに詫びを入れるように頼んだ。平岡の兄貴分が爺さんのところに行って、「あいつらが心違いしたそうです。このことを曲七に言っておやりになれば、大変なことになります。今度だけは勘弁してやっておくんなさい。」と言った。爺さんは、「それはぜひ止して貰いたい。あんな性根のない奴らなら、商売をするなり、かえって真人間になれる見込みがある。今、そういう手紙を書かして、曲七の所に出したところだ。」と言う。
 
「侠客・博奕打ちの物語」を書いた増田氏は、蕎麦屋の爺さんと言われた博徒・亀吉のことを、「遊侠の世界での残照の中で、博奕打ちの親分として、貴重な存在であり、博徒として相当な人物だったといってよかろう。」と記している。亀吉が居た三多摩地区には、幕末・明治期にかけて名を残した博徒がいた。最も有名なのは小金井小次郎である。スケールは小次郎に及ばないが、もう一人は小川村(現・小平市)にいた小川幸蔵である。二人とも歴史に残る博徒である。他方、亀吉は名は知られていないが、この二人の博徒に勝るとも劣らない博徒と言えるのではないだろうか。

賊軍旧幕兵士戦死者を埋葬した博徒たち

明治維新で賊軍幕府側戦死者の遺体収容の行動を取った博徒は少なくとも4人いた。
 
  中でも最も有名なのが威臨丸の清水次郎長である。新政府に反旗を翻した旧幕府海軍榎本艦隊威臨丸が台風に遭遇、破損して駿府藩の外港清水に緊急避難した。艦長小林文次郎は駿府藩に恭順の意を表し、兵士と武器を陸揚げし、停泊中の艦内は副長春山弁蔵、弟鉱平兄弟以下少数の水夫が残っていた。明治元年(1868年)9月18日、そこに新政府軍の富士丸、飛龍、武蔵の三艦が来航し攻撃、春山兄弟以下20余名が殺害され、清水港に投げ捨てられた。
 
次郎長は、夜に紛れて港内をさらい、春山兄弟ら7死体を収容して、新開地向島の古松の下に埋葬した。これが後に山岡鉄舟が揮毫した有名な壮士墓である。この顛末は、東海遊侠伝の著者・天田愚庵自身が戊辰戦争で敗残した経歴から次郎長の侠客の義挙として誇り高く語られている。
 
  二番目の博徒が鳥羽伏見の戦いにおける京都の会津小鉄である。威臨丸事件の半年前、慶応4年(1968年)正月3日に勃発した鳥羽・伏見戦は、幕府歩兵・会津藩兵・新選組等1万5千人の勢力が、三分の一に満たない薩長軍に大敗を喫して終わった。博徒会津小鉄もこの戦闘に人足・子分500名を動員したと言われる。小鉄は、この戦いで放置されたままにされていた幕府軍の戦死者の遺体を収容し丁重に埋葬した。
 
当初、小鉄から遺体収容を命じられた子分たちは、戦闘直後の殺気立った状況と勝手な収容が禁止されている中での作業に尻込みをした。小鉄一家代貸・いろはの幸太郎は、一計を図り、遺体収容に合わせて、道路に散乱した障害物除去、道路整備をすることで、官軍から咎められないようにしたのである。最終的に118体が黒谷光明院に運ばれ、山崎付近の100体が荼毘されて大阪一心寺に葬られた。
 
戦死者の遺品は、官軍占領の会津若松に小鉄が単身で乗り込み引き渡した。この帰途、小鉄は5歳の戦災孤児を連れてきた。この子が成長して、二代目・いろはの幸太郎に仕えた会津の弥吉となる。その後、旧会津藩出身者で組織された会津会により、昭和32年12月15日、黒谷西雲院で会津藩殉難者慰霊法要が実施された。
 
 三人目の博徒は、函館五稜郭戦争で放棄された賊軍兵士を埋葬、慰霊碑を建てた函館の博徒・柳川熊吉である。函館攻防戦の戦死者の数は不明だが、とにかく見せしめのために、旧幕諸隊の遺体は放置された。遺体に触れれば、旧幕脱走軍に内通する者とみなされ、官軍に処罰された。
 
この惨状に立ち上がったのが博徒・柳川熊吉である。熊吉は、遺体引受け先を昔よりの知り合いである日蓮宗実行寺住職・日隆の協力を取り付け、子分600人を動員して、遺体を一夜のうちに収容した。その後、市中の三つの寺に埋葬した。その数は、浄玄寺107名、実行寺94名、願乗寺54名、称名寺3名、合計258名と言われている。当時、旧幕軍の戦死者数は正確に把握されていない。一方、新政府軍の戦死者数は正確に把握されている。陸軍155名、海軍68名、合計223名である。
 
戦争終了後、旧幕軍の遺体処理の探索が行われ、熊吉は捕縛され、軍法会議によって死刑が宣告される。斬首刑実行の寸前に、薩摩出身の軍監田島圭蔵の介入により、熊吉はかろうじて罪一等を減じられた。熊吉の経歴は明らかではないが、江戸生まれで、嘉永年間に函館に移り住み、函館奉行の堀織部正が五稜郭築城の際、子分とともに工事に参加した言われている。
 
後年、旧幕軍戦死者796名が、函館八幡宮の東、函館山の中腹に合祀され、7回忌の時に墓碑「碧血碑」が建てられた。熊吉は、晩年、この墓碑「碧血碑」の整備管理して暮らし、大正2年(1913年)12月7日、88歳で死去、墓は実行寺にある。戒名・典松院性真日樹居士である。
 
 四人目の博徒は江戸の三河屋幸三郎である。幸三郎は八丈島流人の子である。父親の与兵衛がが赦免され、江戸に戻ったのちに、父親に引き取られ、江戸で丁稚奉公をしていた。しかし、継母と会わず、家出して博徒になった。その後、博徒の一方で、人足宿と雑貨商も営業していたらしい。
 
慶応4年(1868年)5月15日、新政府軍大村益次郎指揮により、上野彰義隊に対する総攻撃が開始された。彰義隊は一日にて総崩れし敗走する。上野の山には彰義隊の戦死者が累々と放置され、暑さと雨により腐りだし、悲惨を極めていた。
 
この惨状を見かねたのが、神田旅籠町の人足宿「三幸」こと三河屋幸三郎という博徒である。幸三郎は、三ノ輪の円通寺住職・仏麿と相談し、隊士の遺体を収容して、すべて埋葬処理した。そのとき「死んだら仏だ。敵も味方もねえ。」の啖呵を切ったという。次郎長と同じである。しかし、次郎長が収容したのはわずか7名に対して、幸三郎の収容遺体は183体、しかもその遺体は、一寸四角くらいにバラバラに斬ってあったりして、悲惨極まるものであった。そのとき、幸三郎は40歳近く、男盛りの侠客であった。
 
幸三郎は、もともと吃音の障害があり、小柄で風采はあまり上がらなかったが、人望が厚く、明治25年(1892年)1月24日、肺炎にかかり、67歳で死去した。会葬者は数千人に及んだという。戒名は良忠院賢明義雄居士である。

次郎長より有名な博徒・森石松という人

森石松というと東映映画30石船の「寿司食いねえ」の中村錦之助を思い出す。片目でドモリのおっちょこちょいのやくざという印象である。清水一家では一番有名な子分である。しかしその実像は謎が多い。存在そのものが架空という人もいる。清水一家での活動期間は短いが、存在は間違いない。明治になって次郎長が監獄出所後の晩年、次郎長に面談した人が石松のことを聞いた時、次郎長は涙したと語っている。しかし、石松に関する資料は少なく、その実像は謎のままである。
 
博徒名) 森石松
(生没年) 生年月日不詳~万延元年(1860年)6月1日
       都田吉兵衛、常吉、梅吉、三兄弟により殺害され死亡
 
森石松は三州半原村堀切(現・愛知県新城市富岡)の百姓の子として生まれ、母が死亡後、自宅が火災となったため、父親は石松を連れて、遠州森町村(現・静岡県周智郡森町)に炭焼きの出稼ぎに移転した。
 
石松はその森町で地元博徒・森五郎と知り合い、博徒の道に入る。その後、上州に流れて、喧嘩で常五郎なる博徒を殺害したため、清水に逃亡、ここで次郎長の子分になったと言われている。石松は次郎長一家としては初期の子分である。大きな喧嘩は、安政6年(1859年)、次郎長、大政、石松、八五郎の4人で、知多大野・乙川で保下田久六を待ち伏せ、襲撃した抗争のみである。
 
次郎長は、保下田久六を斬った刀を四国金刀比羅宮に奉納代参の役目を石松に託した。無事奉納代参の役目を果たした帰途、近江草津博徒幸山鎌太郎親分に名古屋で客死した次郎長女房お蝶への香典金25両を託される。石松は遠州中郡の常吉を訪れたところで、長兄吉兵衛、梅吉、常吉の三兄弟に25両を狙われ、博打に誘われ、だまし討ちにあう。
 
長兄吉兵衛は次郎長の久六殺害を怨みとする丹波屋伝兵衛に繋がる博徒である。石松は久六を殺害した4人のひとりである。石松を殺して次郎長に一矢報いようと、久六の子分浜松在布橋の兼吉に連絡して、石松を待ち伏せ、惨殺する。吉兵衛は石松の首を斬りおとし、兼吉に久六親分の墓に供えるように言ったところ、「切歯針張目」怨みを含んで今にも食ってかかりそうな石松の形相に恐れを生じ、石松の髪を断ってこれに代えたという。万延元年6月1日のことである。
 
石松の横死は博徒間の力関係を微妙に変えた。次郎長の盟友江尻の大熊は吉兵衛との兄弟分の杯を返上した。思わぬ反発に吉兵衛は関東の博徒巳之助を介して石塔料50両で手を打ってほしいと持ち掛けた。しかし、次郎長は、俺を子分の命を金で売る親分にするつもりかと烈火のごとく怒って巳之助を追い返した。
 
次郎長一家の吉兵衛追及が強まる中、吉兵衛は大場久八の子分の武闘派の赤鬼の金平に窮状を訴えた。9月16日の夜、金平・吉兵衛連合軍は先手を打って、次郎長の本拠地を襲撃する。当日、次郎長は病気で実父宅で療養中で、本宅はもぬけのカラ、策略と勘違いした吉兵衛らは引き揚げた。その後、吉兵衛は、次郎長一家が河豚にあたり、戦力が低下した噂を聞き、再度次郎長襲撃のため江尻宿に子分9人で集結した。事前に察知した次郎長は逆に大政、小政ら7人で酒盛りの吉兵衛を逆襲して殺害、両腕を切り取り、石松の墓に供えた。これが東海遊侠伝が語る石松仇討ちの顛末である。
 
石松の墓は、静岡県周智郡森町にある大洞院の墓が有名である。しかし、もう一つ石松の生家(愛知県新城市富岡)の近くの墓もある。石松が斬殺されたとき、石松の弟が密かに石松の首を持ち帰り、ここに埋めたと言われている。墓は刻字もなく、石が置かれているだけである。
 
(参考) 東三河を歩こう 石松の墓
(参考) 東三河を歩こう 石松の生家跡
 
写真は石松の墓 愛知県新城市富岡 洞雲寺近くにある。

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悪者博徒の代表・飯岡助五郎という人

飯岡助五郎は天保水滸伝では悪者博徒の代表である。子供の頃、見た映画では、配役は笹川繁蔵を高田浩吉、平手造酒が鶴田浩二で、非常に恰好良く、飯岡助五郎は近衛十四郎であり、いかにも憎たらしかったことを覚えている。助五郎は関東取締出役の目明しの二足草鞋の博徒であり、繁蔵の縄張りを狙い、お上を後ろ盾としたため、判官びいきの世間に嫌われる博徒だったのだろう。
 
博徒名) 飯岡助五郎   (本名) 石渡助五郎
(生没年) 寛政4年(1792年)~安政6年(1859年) 享年67歳 病死。
 
飯岡助五郎は、寛政4年、相模国公郷村山崎(現・神奈川県横須賀市三春町)で半農半漁の石渡助右衛門の長男として生まれる。15歳のとき、江戸相撲友綱部屋の親方に見いだされて、名主・永島庄兵衛と相談の上、村の人別帖から抹消、無宿となって相撲部屋に入門する。しかし、入門後1年も経たずに親方・友綱良助の急死により、力士になることを断念した。すでに無宿身分であったため、九十九里浜に流れて、上総国作田浜の網元・文五郎の漁夫となる。網元・文五郎の死亡後は、下総国飯岡(現・千葉県旭市飯岡)へ地引網の出稼ぎに出る。そこで相撲時代の大力で地元ヤクザを叩きのめして名前を売り、銚子から飯岡まで勢力を張る地元博徒・五郎蔵の代貸となる。助五郎30歳のとき、五郎蔵から飯岡一帯の縄張りを譲り受け、正業である飯岡の網元の事業も成功して、名実とも房総半島での博徒の大親分になった。
 
その頃、利根川流域の笹川では、助五郎より15歳年下の笹川繁蔵が勢力を拡大していた。当初、助五郎と繁蔵は同じ相撲出身でもあり、関係は良好だった。しかし、助五郎が関東取締出役の道案内の岡っ引きとなり、二足草鞋を履くと、両者間の関係は険悪になり、子分同志の抗争も頻発した。天保15年(1844年)、助五郎に関東取締出役から繁蔵捕縛の命令が下る。同年8月6日、助五郎は20数人で繁蔵襲撃に向かったが、事前に察知した繁蔵側の奇襲反撃に会い、笹川側の死者は用心棒平手造酒の唯ひとりに対して、飯岡側は半数を失う大敗北となり、助五郎は、面目を失った幕府から入牢という屈辱を味わう。
 
一方、繁蔵は、捕縛を逃れるため、奥州へ逃亡していたが、3年後の弘化4年7月4日に故郷に戻ったところを、助五郎の子分・堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田甚蔵の3名に闇討ち、殺害された。親分を殺された繁蔵の子分の勢力富五郎は、飯岡一家に復讐を図る。しかし、嘉永2年(1849年)、勢力富五郎は、助五郎一家の後ろ盾でもある関東取締出役に追い詰められて、東庄の金毘羅山で52日間、役人たちと抗争したのち、自殺した。翌年に一連の騒動が、江戸で宝井琴凌によって嘉永版「天保水滸伝」として評判になった。丁度そのとき、飯岡助五郎が58歳の時である。
 
それから9年後の67歳で、飯岡助五郎は病死する。晩年の助五郎は、近所の子供たちから「川端のおじいさん」と呼ばれ、慕われる好々爺だったという。助五郎が後世まで悪者博徒の汚名を着るのは笹川繁蔵を闇討ちしたことにある。1978年発行、ふるさと文庫「飯岡助五郎・真説・天保水滸伝」の著者・伊藤實氏によれば、暗殺事件については助五郎は知らぬことであり、子分が、勝手に実行した後に繁蔵の首級を助五郎に届けた。驚いた助五郎は、繁蔵一家の報復を恐れ、飯岡の定慶寺に繁蔵の首を、秘密裏に葬り、死ぬまで香華を絶やさなかったという。
 
写真は飯岡助五郎の墓。戒名・「発信院釈断流居士」。千葉県旭市飯岡 光台寺にある。

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次郎長のお目付け役博徒・安東文吉という人

安東文吉は駿河国府中(現・静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の博徒である。別名「暗闇の代官」「日本一の首つなぎ親分」と呼ばれ、その評価はさまざまである。

(博徒名) 安東文吉   (本名) 西谷文吉
(生没年) 文化5年(1808年)~明治4年(1871年) 享年64歳
      府中の自宅で病死

安東文吉は駿河国安倍郡安東村(現・静岡市葵区)の豪農である西谷甲右衛門の子として生まれる。大柄で力もあるため、弟の辰五郎とともに江戸相撲清見潟部屋に入門したが、途中で力士を弟辰五郎ともにあきらめ故郷に戻った。故郷に戻った兄弟はそろって博打打ちの仲間に入り、自ら無宿となった。その後、問屋場人足相手に博打を打つ間に、博徒仲間の借金のもつれから、地元博徒の炭彦親分と斬り合い事件を起こす。この事件以降、度胸の良さから、子分も集まり、勢力を拡大し、地元博徒の顔役となっていった。

当時の甲州遠州博徒勢力拡大から、治安維持に苦慮した駿河代官は、文吉、辰五郎兄弟に十手縄を預け、代官の手引きの二足の草鞋を履かせ、博徒の騒乱を抑え、治安維持安定を図った。同時に文吉は、箱根関所と新居関所の公用手形の交付権限を与えられ、富士川と大井川の間の区域で大きな権力を持つようになる。文吉は二足草鞋を履くようになってからは、賭場はすべて子分に任し、自らは博打をしなかったという。

文吉は次郎長より12歳年上で、次郎長が若い頃、サイコロ博打でイカサマをしたとき、文吉の子分に捕まったが、次郎長は文吉に命を助けられている。以後、次郎長は事件を起こし、三州、尾張方面へ逃亡する際も、文吉に迷惑をかけないように、常に清水港から久能山街道の海岸を通り、府中内の東海道を避け、掛川宿から東海道に戻るコースを使用したと言われている。次郎長が保下田久六を殺害して、大場久八と敵対した際も次郎長を庇い、上州一派との和解に努めている。それゆえに「博徒は木綿を着て絹を着るな。素人衆には道を譲れ。街中では駕籠にに乗るな。」等の清水一家の規律は文吉ゆずりといわれる。

文吉は、「好んで兇状持ちになる者はいない。」と言って、兇状持ちの博徒に関所通行手形を交付し、その逃亡を助けたことも多々あった。そのため博徒仲間では、「日本一首つなぎ親分」の別名がある。

一方で、遠州の国領屋亀吉は、幕末のやくざ社会の様子を尋ねられた際に、「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越喜左衛門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・・みんないい顔だったよ。」と名を挙げているが、「文吉さんはどうでしたか?」と聞かれた際には、土地の方言を使って、「あの人はオッカネエー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を恐れたという。別名「暗闇の代官」と呼ばれた意味もわかるような気がする。明治4年4月8日、府中の自宅で死去。64歳。

写真は安東文吉の墓。戒名「心善院法山日櫻居士」静岡市駿河区池田 本覚寺にある。

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品川台場建設に貢献した博徒・大場久八という人

大場久八は、韮山代官江川太郎左衛門の要請により、兄弟分である甲州豪商天野海蔵とともに、品川台場建設に協力した博徒として有名である。

博徒名) 大場久八  (本名) 森久治郎
(生没年) 文化11年(1814年)~明治25年(1892年)  享年79歳
      上州への旅の途中、現・都留市谷村において中風で死亡

大場久八は伊豆国田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれた。28歳のとき野天博打で無宿となり、博徒となる。その頃、甲州博徒武居吃安、甲州豪商天野海蔵と兄弟分になる。その後、伊豆に戻り、結婚するが、妻・志津の弟が、東海道随一の貸元と言われた丹波屋伝兵衛である。

35歳のとき、兄弟分の桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎・石原村幸次郎と遠江国岡田村(現・磐田市)で決闘し、両名に深手を負わせた。またその頃、上州博徒大前田英五郎の暗殺を謀った御宿の惣蔵を殺害し、英五郎と兄弟分となった。

大場久八の勢力圏は駿河、伊豆、甲州武州、相州の5カ国に及び、子分3,000人以上、当時の三大博徒である、上州の大前田英五郎、伊勢の丹波屋伝兵衛と並ぶ博徒の一人である。台場建設の貢献で、韮山代官江川から支配地の御用・二足草鞋の要請もあったが、「骨が舎利になっても二足の草鞋は履かない。常に人の下に立つ」の信念でこの申し出を拒絶している。

日常の食事・服装は質素を重んじ、食事は常に一食一菜、服は木綿着で生涯を通した。これを聞いた武州博徒・小金井小次郎が村山織二反を送り届けたが、ありがたく受領しただけで一向に着ることはなかった。慶応4年には武州甲州の子分30人からなる「辰巳隊」を編成し、新撰組近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊に加わったという。当初「辰巳隊」は食糧運搬任務の後方部隊だったが、本隊の相次ぐ脱走に伴って、戦闘にも参加することとなった。これは関係の深い韮山代官江川英龍の秘蔵子の松岡磐吉との関係があったためと言われている。

甲陽鎮撫隊の大敗ののち明治以後、久八は跡目を三島の玉屋佐十郎に譲り、博徒の足を洗い、百姓として余生を暮らす。明治25年12月3日、上州への旅の途中、山梨県南都留郡谷村町の旅籠で中風で倒れ、死亡した。久八は反次郎長派の博徒である。次郎長が保下田の久六を殺害した際、久八は富士宮に子分を集め、次郎長に敵対した。次郎長は大政、八五郎の3人で富士宮に向かい、面談を申し込むが拒絶され、理論家の大政のみが面談して久六を説得したという。その意味でも、久六は侠客の流れにある博徒というのは言いすぎであろうか。

下の写真は大場久八の墓。田方郡函南町間宮 広渡寺にある。
戒名「信禮院義誉智仁徳善居士」である。

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悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵という人

黒駒勝蔵は、清水次郎長の敵役として有名で、その生涯は喧嘩に明け暮れ、最後には官軍の兵士でありながら、博徒の罪で処刑された謎多き運命をたどった博徒である。

博徒名)黒駒勝蔵  (本名)小池勝蔵
(生没年)天保3年(1832年)~明治4年(1871年)  享年40歳
      斬罪により処刑

黒駒勝蔵は、天保3年、上黒駒村(現・山梨県笛吹市)で村役人を務めた家である小池嘉兵衛の息子として生まれた。安政3年25歳のとき、勝蔵は親元を飛び出し、中村甚兵衛(竹居安五郎通称「吃安」の兄)の子分となり、博徒となる。勝蔵が博徒になった2年前に、竹居安五郎吃安は、新島からの島抜けに成功して、甲州に戻り、潜んでいた。安政5年、石和代官森田岡太郎が他国に移動となり、吃安の追及の手が緩んだ頃、勝蔵は吃安と手を組んで勢力を伸ばし始めた。

当時の甲州の有力博徒は、甲府柳町の三井卯吉を頭とする甲府元柳町の祐天仙之助・甲斐国八代郡国分村の国分三蔵一派、駿河国御殿場村の御殿伝蔵・上野国館林藩浪人の犬上郡次郎らがいた。彼らは代官目明し等の二足草鞋を履く博徒であった。吃安と勝蔵は、これらの有力博徒と抗争する形で勢力を伸ばしていった。その後、仙之助、三蔵、郡次郎らの計略により、竹居吃安が捕縛され獄死したことを聞いた勝蔵は、三蔵ら一派に襲撃を企て、郡次郎の殺害に成功する。その後、兇状持ちとなった勝蔵は甲州を逃亡し、三州、尾張各地を転々としながら、国分三蔵と同盟関係にある清水次郎長との対立を深めていった。

荒神山の喧嘩以後、勝蔵は大坂に潜伏し、途中の経過は不明ながら、慶応4年1月に勝蔵は、元々勤皇思想の上黒駒村の檜峰神社神主・武藤藤太と親交があり、美濃博徒・水野弥太郎の案内により、小宮山勝蔵の名で赤報隊に入隊する。加納宿に現れた勝蔵らの赤報隊は、悪い評判により、官軍から帰京命令が発せられ、解隊を命じられる。京に戻った勝蔵は、駿府鎮撫総督となった四条隆謌に預けられ、四条隆謌に随行する徴兵七番隊に編入され、明治元年5月、京都を出発、東海道を下った。彼ら部隊が清水を通過するとき、勝蔵は、駿府町を統治した伏谷如水に対し、次郎長をさらし首にすることを要求した。次郎長は、旧幕府の勝蔵探索書を根拠に、勝蔵の捕縛を訴え出た。ここでも形を変えて双方は対立したのである。

徴兵七番隊に属した勝蔵は、池田勝馬と名を変え、戊辰戦争に従軍、東北地方を転戦する。戊辰戦争終了後、東京に凱旋した同隊は、第一遊軍隊に改称した。引き続き同隊に所属する勝蔵は、甲州黒川金山開発を明治政府に願い出、休暇許可も取得して甲斐国に戻る。だが、休暇期限を切れても、彼はそのまま甲州に滞在し、伊豆蓮台寺温泉へ湯冶に行く。これが無断脱退の嫌疑を受ける理由となる。

明治4年1月25日、勝蔵は、「池田勝馬」としてでなく、「無宿黒駒勝蔵」として、伊豆国畑毛村(現・静岡県田方郡)で捕縛され、2月3日、連行され甲府で入牢、同年10月14日、斬刑に処される。

黒駒勝蔵は、講談や芝居で、次郎長の悪者敵役のイメージが強く、勤皇博徒の名は知られていない。しかし、勝蔵は根からの勤皇主義者でもなく、反幕府思想の持ち主でもない。権力に対しての反逆に共鳴する侠客ではなかったか?その意味で、黒駒党と名指しされた博徒三州雲風亀吉や美濃博徒水野弥三郎が草莽の志士として、波乱の生涯を終えた博徒らと共通するものがある。それに対して時代を泳ぎ切った次郎長との違いは十分確認しておく必要があるだろう。

偽官軍の名で殺された美濃博徒・水野弥三郎という人

皆さんは幕末に偽官軍として、信州下諏訪で処刑された「赤報隊」のことをご存じだろうか?その後、昭和になって亡霊のように、朝日新聞襲撃事件において「赤報隊」の名が使用された。この赤報隊に深く関わり、最後は自ら縊死した博徒が水野弥三郎である。

博徒名)岐阜の弥太郎  (本名)水野弥三郎
(生没年)文化2年(1805年)~慶応4年(1868年)  享年64歳
      大垣藩本牢内で縊死により自殺

水野弥三郎は、岐阜矢島町の医師の子に生まれるが、医業を嫌って、一心流鈴木長七郎に入門する。めきめきと剣の腕をあげるが、医家から破門され、博徒となる。その後、武儀郡関小左衛門、安八郡神戸政五郎と並ぶ美濃三人衆と称され、子分配下500余人を抱える大親分となる。

水野家は代々京都西本願寺の典医であった。そのため京都とのつながりが強く、新撰組から分離した反近藤派の高台寺党を率いた伊東甲子太郎と関係があった。その後、甲子太郎が暗殺された後は、赤報隊2番隊長で、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎と関係を強めていく。

赤報隊とは、慶応3年12月西郷隆盛らの策略による薩摩邸焼き討ち事件を成功させた部隊が京に戻り再結集、倒幕挙兵の同志を募り、京都を脱走した綾小路俊実滋野井公寿の二卿を奉じて、東征軍の先鋒として編成された草奔の部隊である。一番隊は相楽総三、二番隊は鈴木三樹三郎、三番隊は江州水口藩士油川錬三郎がそれぞれ隊長を務めた。慶応4年正月に江州松尾山金剛輪寺で結隊、15日江州松尾山を出発、近江を経由、21日に美濃の加納宿に到着した。二番隊には、荒神山の決闘から姿を消した黒駒勝蔵が参加していた。

黒駒勝蔵は、水野弥三郎とは親子ほど年が違うが、昔から水野弥三郎の手下の関係にあった。赤報隊から、弥三郎に300人程の子分を出すよう指示があった。弥三郎はこれに応じ、270人の手下を出した。しかし、加納宿での手下博徒らの乱暴、狼藉行為が大きな問題となる。それ以上に問題となったのは弥三郎が、赤報隊美濃路街道沿いに勝手に発布した年貢半減令の告知に深く関わったことにある。

新政府は財政逼迫しており、年貢半減は認めらるものでない。さらに恭順一色の幕府の対応に赤報隊の緊急性は不要となり、むしろ邪魔になった。東山道鎮撫総督府大垣藩に弥三郎捕縛の命令を出す。しかし、弥三郎は手下500人を持つ博徒である。総督府は官軍協力の褒賞授与による呼出の形式をとり、一種のだまし討ちで弥三郎を捕縛した。翌日、事実を知った弥三郎は牢内で縊死して死亡した。

死亡後、加納宿に次のような高札が掲げられた。
   岐阜住人 水野弥三郎
「右之者、従前より天下之大禁を犯し子分と称し候無頼従者衆し、奸吏と交わりをむすひ、良民を悩まし候件、少なからず、あまつさえ官軍之御威光を仮り、欲しい儘に人命絶って候段、不届き至極に付き、召し寄され御詰問之処、申し訳相立たず、罪あり、入牢仰せつけられ候に付き、追々斬罪之上、梟首仰せつけらるべきところ、死去いたし候につき、其の儀に及ばざること相なり、百姓町人共右之次第、篤なことと心得べきものなり。」

水野弥三郎の墓は、水野家菩提寺蓮生寺の家墓から追い出されて岐阜市の共同墓地に眠っている。弥三郎の法名は「釋専志信士」。隣に弥三郎に殉死した子分生井幸治の墓が並んでいる。子分生井幸治の戒名は「勇肝鉄心信士」任侠の生き方が何たるかを後世に伝えている。

歴史の大義に賭けた博徒の思想は幕末維新の中で消滅した。しかし、慶応4年正月尾張藩が急遽編成した「尾張藩草奔隊」に、尾州博徒北熊実左衛門、三州平井の博徒雲風亀吉に並んで、水野弥三郎の一の子分岐阜の高井辰蔵の名前がある。振り返って、幕末の草奔隊には清水次郎長の系列は一人も参加していない。反対に次郎長は、時代の風を読む天性の能力で、葵から菊への大激動を難なく乗り切ってみせた。

 

写真は水野弥三郎の墓(右側)・左側は殉死した子分の生井幸治の墓。

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