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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

信州の博徒・間ノ川又五郎という人

信州長野は、昔から博徒関八州の追手からの逃亡する場所として知られている。国定忠治関八州取締から何回も信州へ逃れている。長野善光寺は全国から参拝者が来るので、博徒が身を隠すには便利なのだ。

間ノ川又五郎も上州生まれで、旅暮らしの結果、信州長野中野村に一家を構えた。幕末の博徒では清水次郎長、黒駒勝蔵、大前田英五郎、天保水滸伝の笹川繁蔵などが有名である。間ノ川又五郎もそれらと比しても遜色のない博徒である。その勢力範囲は、「善光寺平」一帯を中心に、東は関八州、西は美濃中山道、南は東海道、北は越後に及び、子分身内三千人と言われた大親分である。

博徒名)間ノ川又五郎
(本名) 佐山 忠輝
(生没年)文化12年(1815年)~明治8年(1875年)

幕末には、有名な赤報隊「相良総三」に対して、三百人の手勢を応援に出すほどの勢力を持っていた。官軍と幕府軍維新の戦いである飯山戦争では、混乱する地元の治安維持の任を受け持ち、駐留していた尾張藩の警護、兵糧調達の役目をした。戦いでは子分を連れて、尾張藩に従い、越後小千谷に出陣した。

間ノ川又五郎の生涯は波乱万丈である。博徒の常として、副業として「上総屋」という妓楼の経営者でもあった。維新後は、信州中野で起きた百姓一揆である中野騒動において、関係者捕縛の仕事を行い、その功が認められ、中野県庁、その後の長野県庁の正式職員となった。そして明治8年12月に61歳で生涯をとじた。

又五郎没後になるが、明治13年6月の清水一家と平井一家和解の手打ちの仲介の役目を務めたのもこの間ノ川一家で、又五郎の息子であった。間ノ川又五郎の本家である佐山家のお墓は現在、長野湯田中駅の一つ手前、山内町上条駅の近くの善応寺にある。

下記写真は間ノ川又五郎(佐山忠輝)の屋敷跡に建てられた記念碑である。

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義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉という人

吉良仁吉は村田英雄の歌「人生劇場」で有名な博徒である。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた義理と人情に生きた博徒でもある。

博徒名)吉良仁吉  (本名)太田仁吉
(生没年)天保10年(1839年)~慶応2年(1866年)  享年28歳
      勢州高神山観音寺境内の裏山で喧嘩死

三州吉良仁吉は、三河国幡豆郡上横須賀村御坊屋敷(現・愛知県西尾市)の小作農出身だが、別名「御坊善」の博徒名を持つ父親・太田善兵衛・りきの長男として生まれた。

仁吉は、子供の頃、綿の実買いの手伝いをし、やがて知多郡半田村(現・愛知県半田市)の酢屋に奉公に出る。子供の頃から体格は大きいが、吃音であったらしく、人との付き合いは苦手であった。15歳の頃、半田の奉公先から帰った仁吉は、地元博徒の親分・寺津間之助の子分となる。父親「御坊善」の影響があったと思われる。

仁吉はどのような人物であったのか?
仁吉の姉板倉いちの二男倉蔵の証言が残っている。仁吉が死亡した時、僅か10歳だったが、母親いちに連れられ、仁吉の遺体と対面している。仁吉は幼いころ疱瘡を患い、長じてもその痕が残るあばた顔で、身長6尺(1.8メートル)の大男であったという。

仁吉は、たまたま博徒同志の諍いで相手を撲殺した。そのため、寺津間之助と兄弟分である清水次郎長のもとに博徒修行を兼ねて逃亡している。その後、安政7年(1860年)ごろ地元に戻った仁吉は、間之助のところで再度修業しながら吉良一家を構える。次に仁吉の名が出るのは、清水一家の平井亀吉、黒駒勝蔵襲撃事件の時である。この時、仁吉は子分3人を連れ、清水一家34人の襲撃に参加している。

仁吉が戦死したのは有名な「荒神山の喧嘩」である。喧嘩の発端は勢州桑名の博徒・穴太徳次郎(別名・安濃徳)が、次郎長・間之助と親しい勢州神戸町(現・三重県鈴鹿市)の博徒・神戸長吉の縄張りを奪ったことによる。縄張りを奪われた神戸長吉は仁吉に助けを求めた。たまたまそこに寺津間之助宅に厄介になっていた清水一家の大政が居り、長吉を助けようと立ち上がった。

荒神山一帯では、毎年4月上旬に神社、寺院のお祭りが続く。祭りには地元博徒が野天博打の賭場を開催するのが常である。この祭りの時期に清水一家は長吉一家の縄張り奪還抗争を開始する。三河から伊勢に向った清水側部隊は、清水一家の大政以下9名、吉良一家は仁吉以下7名、神戸一家は長吉以下7名、総勢23名である。対する穴太徳側は、穴太徳次郎、角井門之助以下に雲風亀吉子分20余名を加えた、総勢40余名である。

舞台となった高神山観音寺周辺には標高85メートルの高塚山がある。近くの加佐登神社裏に陣取った長吉側に対し、穴太徳側は高塚山頂上に陣取る。慶応2年4月8日朝、戦いの火蓋が切られた。穴太徳側は漁師に鉄砲を持たせ、「先ず肥大の者を撃て」と、大政と仁吉を狙い撃ちさせたところ、仁吉が撃たれた。仁吉が木の根元にしゃがみ、槍を肩にかけ苦しんでいると、穴太徳側の角井門之助が仁吉を見つけ斬りかけた。仁吉が槍で防いでいると、そこに仁吉を探していた長吉の子分久居才次郎が駆けつけ、門之助を斬り倒したという。敵将門之助を討ち取られた穴太徳側は戦意を失い、総崩れ逃走した。

重傷を負った仁吉は戸板で山下まで運ばれたが、鈴鹿郡上田村から石薬師に至る途中の畑で絶命した。享年28歳の若さである。この喧嘩で即死した者は、穴太徳側は角井門之助はじめ5人、一方、長吉側の即死者は、仁吉の子分船木幸太郎、清水一家の大五郎以下4人という。また、長吉側の重傷者は、吉良仁吉以外に3名いる。清水一家の大瀬綱五郎・清次郎、長吉一家の糸屋市五郎である。軽傷者は、清水一家が保太郎・勝太郎、吉良一家が松坂米太郎・伏見桃太郎・小山田丹蔵、長吉一家が四日市敬次郎・久居才次郎・神戸宇吉の合計9名である。

浪曲では、仁吉の妻は穴太徳の妹「きく」とされ、荒神山へ出かける直前に、仁吉は新妻であるにもかかわらず離縁して決意を固めたとしている。つまり「義理と人情」のため、命を落とす任侠道の世界と美化された由縁である。しかし、仁吉の姉いちの子である板倉倉蔵は、「仁吉には真の女房というものはなかった」と、後日、語っている。創作にしても義理を通して若くして逝った吉良仁吉の生き方が、人々の心に通じるものがあったのかもしれない。

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写真は吉良仁吉の墓  源徳寺(愛知県西尾市

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関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎という人

武州熊谷石原村(現・埼玉県熊谷市)の無宿幸次郎という博徒をご存じであろうか?

石原村幸次郎は、嘉永2年(1849年)、武蔵国熊谷宿あたりに突如出現し、武装したアウトロー集団を結成、次々と殺人、強盗、拉致傷害などしたい放題、挙句の果てに逃亡、甲州から駿河と、行く先々を荒らし回り、甲州に舞い戻り、信州までわがもの顔で横行して、悪の限りを尽くした博徒一味の頭目である。最後は、甲州勤番に捕縛され、江戸小塚原の刑場の露となった博徒である。この騒動は、幕府の治安警察力を蹂躙し、その組織の弱点を露呈させた。しかし、無宿幸次郎の名はほとんど知られていない。

博徒名)石原村幸次郎  (本名)石原村無宿幸次郎
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
      江戸小塚原刑場で獄門

関東取締出役が、石原村幸次郎一味の悪行を把握したのは、嘉永2年8月のことである。幸次郎は、熊谷宿の絹商人を襲って300両を強奪、道案内の板井村の八五郎を恐喝して金を奪い、熊谷宿髪結い林蔵の女房さくを拉致するなど、悪党ぶりを見せつけた。一味の総勢は21人、長脇刀、槍、鉄砲まで携帯、武装し、電光石火のごとく犯罪を起こし、神出鬼没、逃げ足も速い。

嘉永2年は関東取締出役とって大変な年であった。この年、下総利根川流域では博徒・勢力富五郎一味が大暴れし、その捕縛に必死であった。関東取締出役の手勢だけでは幸次郎一味を捕縛は困難である。そのため関東取締出役の指揮、命令下にある各村の自衛組織の「改革組合村」を利用した。幸次郎一味捕縛のため各村に改革組合村の動員をかけ、川越藩の協力も得て、総勢4,000人余りの体制を引いた。しかし、人数は多いが所詮農民等素人の集まりで、お祭り騒ぎ的捕りものでは、費用のみ掛かり、成果は殆どなかった。

幸次郎一味21名は、包囲網を逃れ、武州を南下する。甲州鰍沢博徒の目徳を殺害、駿州一本松新田(現・沼津市)の質屋源兵衛から35両強奪、遠州相良の博徒富五郎を襲撃など次々に事件を起こす。一方、伊豆、駿河支配の韮山代官江川英龍は、捕縛のため最新鋭ドントル銃を持たせた手代を派遣し、幸次郎一味と激突、2名捕縛、1名射殺するも、幸次郎本人は取り逃がした。

信州東山道山岳地帯に逃げ込んだ幸次郎一味は、中之条代官の必死の捜索で、信州岩村田宿(現・長野県佐久市)、長久保宿(現・長野県小県郡)で子分たちを捕縛し、遂に、嘉永2年9月2日、甲州勤番が幸次郎をお縄にした。まさに幸次郎と関東取締出役の疾風怒涛の3ケ月間の戦いにより幸次郎一味は壊滅した。しかし、捕縛は、管轄外の韮山代官、中之条代官、甲州勤番の手によるものである。これはいかに、関東取締出役の警察力が弱体化していたかを示している。

捕縛された14人の構成は、無宿9人、百姓4人、浪人1人である。幸次郎は江戸送り後に獄門、5人は死罪、2人は吟味中牢死、残りの6人は不明である。

江戸後背地の関八州は、御三家水戸藩以下、譜代、旗本の知行地、直轄領であるが、幕府に裁判権、警察権の権限のない分割支配地である。しかも相互複雑に錯綜しており、集中統一支配は困難を極めた。したがって、関東取締出役の警察力の拡充は最後まで未了のままに終わったのである。

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一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵という人

幕末から明治にかけ、武蔵国多摩郡博徒に、小金井小次郎と小川幸蔵の二人がいた。だが、小川幸蔵は世間によく知られた博徒ではない。北島正元長の著書「幕藩制の苦悩」は当時の博徒について次のような記述がある。

博徒の本場と言われた上州には、国定忠治のほか、大前田英五郎(勢多郡大前田村)・栄次(勢多郡月田村)・三木文蔵(新田郡世良多村)・高瀬仙右衛門(邑楽郡上高島村)などの貸元がおり、下総の飯岡助五郎・笹岡繁蔵武州の小金井小次郎、府中の田中屋万吉、高萩の鶴屋万次郎、小川幸蔵などの親分連中が全国に名を響かしていた。」と名前が出るが、所詮、小悪党である。とても、全国に名を響かせる程の博徒ではない。唯、資料に名前だけはよく出てくる博徒である。

小川幸蔵は、慶応2年(1866年)6月、武蔵国秩父郡名栗村(現・埼玉県飯能市)で発生した大規模な百姓一揆の鎮圧に参加して、韮山代官に恩を売った。しかし一方では、地元百姓から金銭を無理借りして、借金を踏み倒しするなどあまり評判の良くない博徒であった。

博徒名)小川幸蔵  (本名)小山幸蔵
(生没年)天保2年(1831年)~明治17年(1884年)  享年54歳
      八王子警察署に服役中、病気で牢死

小川幸蔵が住んでいた武蔵国多摩郡小川村は、江戸近郊の新宿と青梅を結ぶ青梅街道の中間に位置し、江戸時代初期に新田開拓された村である。青梅街道は、以前、江戸への石灰需要を支える動脈である。その後は、江戸向けの野菜や薪炭を運ぶ街道として、幕末には上州、甲州と並ぶ養蚕地として多摩地方から横浜への生糸運送の動脈として発展していった。生糸による貨幣経済成長とともに、同時に博徒の根拠地ともなった。

小川幸蔵はもともとは土地持ち本百姓の出身である。しかし、父親の小川幸八が無宿博徒となってから、その子供の幸蔵も同様に無宿の博徒となっていく。

天保15年(1844年)、小川幸八は、小金井小次郎との抗争で、小次郎は江戸佃送りに、幸八は八丈島送りとなった。幸八は、八丈島で17年、流人として暮らす。そして幸八は万延元年(1860年)仲間30人とともに島抜けを図るが、失敗する。その際、八丈島樫立村の名主兵吉を殺害し、追い詰められ自殺している。

26歳のとき、小川幸蔵は、近くの村の神社の祭りで仲間とともに百姓らに対して傷害事件を起こす。韮山の役人の追及を逃れるため、幸蔵は小川村から脱走し、無宿となる。しかし、姿を隠したのは表面上で、現実は村内で茶屋渡世を営みながら、博徒の勢力を維持していた。

その当時、秩父郡名栗村から始まり、関東一円に拡大した百姓一揆武州世直し一揆)が発生した。一揆の鎮圧部隊として編成されたのが、秩父郡田無村名主下田半兵衛が率いる田無農兵隊である。幸蔵一党は、この田無農兵隊と連携協力して、一揆鎮圧に成功する。一揆鎮圧での幸蔵の行動は、名主に高く評価され、幸蔵の帰村が許される。

明治2年(1869年)、新政府の警察権力の空洞を埋めるため、幸蔵は、韮山県から一揆における功績もあって、治安維持の役目を受ける。しかし、幸蔵は、自分自身は直接悪事をしないが、配下の50人程の子分を使って相変わらず、無法を行っていた。地元の百姓も遂に我慢できず、県に訴えを申し出、明治4年(1871年)4月、品川県に捕縛され、5年間の流刑(准流)を受ける。

その後、賭博の罪で懲役4年の刑を受けた小川幸蔵は、八王子警察署服役中の明治17年6月、肋膜炎兼肺炎で死去する。享年54歳であった。

次郎長兄弟分博徒・寺津間之助という人

寺津間之助(本名・藤村甚助・父親の名を襲名した。)は、清水次郎長より一つ年上で、次郎長と4分6の兄弟分の杯を交わした、三州幡豆郡寺津村(現・愛知県西尾市寺津町)の博徒である。幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣屋(現・愛知県碧南市)の支配下にあった。三河平野一帯は三河木綿の栽培地で、三河木綿の綿打ちが盛んに行われていた。寺津港は綿花、木綿、さらには古くからの吉良の製塩「饗庭塩」の物資集積地として繁栄していた。その物資は清水、伊豆経由で廻船で江戸に送られていた。

間之助は、父親の跡を継いで藩から十手取り縄を預かり、言わば博徒との二足草鞋を履いていた。身長、5尺6寸(1.76メートル)体重、24、5貫(90キロ強)と相撲取り並みの大柄で、寺津港に百石船3隻を保有、海運業でも稼いでいた。しかし、間之助の性格は、人との争いを嫌い、博徒渡世人としては、珍しく穏健な人物であったようである。

そんな間之助の性格が好まれたのか、清水次郎長は清水に居られなくなると、いつも寺津間之助の家に逃げ込み、常に間之助は次郎長の良き支援者であった。次郎長の妻、三代目お蝶は、
三河西尾藩の侍、篠崎東吉の娘であり、同藩の侍と一度結婚して、清太郎という一子をもうけたが、その後離婚し、清太郎は後に次郎長の家に引き取られている。

若き頃、次郎長は、寺津に逃亡滞在中、吉良の博徒親分である備前浪士・小川武一の弟子となり、昼は猛稽古に励んだと「東海遊侠伝」に記述がある。博徒剣法の修行も三河寺津で習得したわけである。

昭和2年発行「名古屋地方裁判所管内博徒ニ関スル第2調査書」によると、吉良一家の項があり、「吉良一家は、嘉永期(1848年~54年)に初代寺津治助が立ち上げ大いに勢力を振るい、清水次郎長食客となった。治助の跡目は実弟の藤村間之助で、次郎長と兄弟分となり、連携して勢力を拡大した。子分には大田仁吉(吉良仁吉)がおり、膂力胆力群を抜く存在となり、間之助は跡目を仁吉に譲った。」と記述されている。しかし、これは間違いで、吉良仁吉は寺津間之助の身内子分であり、その後、仁吉の吉良一家は寺津一家から独立、一家を立ち上げたもので、両方を混同している。

寺津間之助には実子に定五郎がいるが、堅気で、鰻、焼きハゼの商売を行い、藤村家を継いでいる。唯一、博徒になったのは、孫の牛五郎で、祖父・間之助の名声に憬れ、龍の彫り物を入れて、一時、清水一家の食客にもなっている。そのため、藤村家は牛五郎の弟の幸一郎が後を継いだ。

それ以降、寺津一家は博徒稼業を廃業し、普通の堅気となる。よって、寺津身内は初代、兄の寺津治助、2代目、弟の寺津間之助で博徒稼業は終了した。明治になっても博徒として生きた寺津間之助は明治10年10月14日没している。

上の写真は初代・寺津治助の墓。下の写真は二代目・寺津間之助の墓。
愛知県西尾市寺津東市場48 養国寺にある。

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関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎という人

講談「天保水滸伝」で有名な総州下総国(現・千葉県)の博徒で、二足草鞋で関東取締出役道案内の飯岡助五郎と地元博徒の笹川繁蔵がいた。勢力富五郎は、この笹川繁蔵の子分である。親分の繁蔵が助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちのため、助五郎を狙って、関東取締出役と死闘を繰り広げ、最後に追い詰められ、28歳で自決した武闘派博徒である。その後、絵師歌川豊国が、「近世嘉永水滸伝」で、勢力富五郎の錦絵を描き、一躍、侠客博徒として人気が上がった。
 
博徒名)勢力富五郎  (本名)柴田佐助
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
      総州万歳村(現・千葉市旭市) 金毘羅山中に立てこもり自殺
 
勢力富五郎は、干潟八万石の万歳村(現・千葉県旭市)に生まれ、江戸大相撲力士を志願、雷権太夫入門、三段目まで昇格した。しかし、その後廃業、博徒の世界に入り、笹川繁蔵の子分となる。弘化4年(1847年)、親分繁蔵が、関東取締出役の手先飯岡助五郎の息子の堺屋与助に闇討ちされた後は、関東取締出役と対決、闘いを挑んでいく。
 
嘉永2年(1849年)12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことが決定した。ところが下総東部、利根川下流域では、無宿の博徒勢力富五郎とその子分が関東取締出役の追及を尻目に無法を尽くし、跋扈していた。この地域は江戸の後背地として、九十九里の干鰯と銚子の醤油の一大地場産業地であり、活気を帯びていた。そこに博徒らも入り込み、加えて、将軍鹿狩りもあり、治安維持は重大事であった。関東取締出役は面子にかけても、勢力富五郎捕縛をする必要があった。
 
関東取締出役は、関八州東海道からの応援も受け、道案内、岡っ引き500人以上を集合させ、富五郎捕縛に向かわせた。ところが、勢力富五郎は鉄砲などで武装しながら、一味の行方は知れず、捕縛は困難をきたした。この地域は、この騒動の翌年に脱獄囚高野長英も潜伏したことがあり、お尋ね者が身を隠す格好の地域であった。また、二足草鞋の飯岡助五郎と関東取締出役の裏での結託を知る地元の人々は、勢力富五郎に同情し、判官贔屓に傾いていた。そのため万歳村の名主・井上治右衛門等は勢力一派を密かに自宅に匿い、情報も筒抜けの状態であった。
 
業を煮やした関東取締出役上層部は、地域外の常州土浦藩の名主内田佐左衛門を道案内にスカウトし、勢力富五郎捕縛の切り札に投入する。内田佐左衛門は勢力一味が潜伏する一帯をしらみつぶしのローラー作戦で包囲網をじわじわ狭めていった。
 
本拠地の万歳村の隠れ家を出た勢力富五郎と子分たちは八重穂村を抜け、小南村金毘羅山の山頂に鉄砲を武器に立てこもる。このことは本家「水滸伝」の梁山泊になぞらえ、江戸の評判となった。しかし遂に、追い詰められた勢力富五郎に付き従うのは、子分の栄助一人となった。二人は関東取締出役のお縄にかかるのは真っ平と、自決を選ぶ。時に嘉永2年(1849年)4月28日、大捕物は52日に及んだ。
 
この騒動で清瀧村無宿佐吉ら9人、今郡村百姓四郎兵衛ら6人、合計15人が捕縛され、江戸送りとなった。そのときに押収した武器は、鉄砲10挺、鑓3筋、長刀2振り、種ケ嶋火縄銃、刀等となっている。幕府は、鉄砲を主体とした武器の質と量に驚きを隠せない。対抗する幕府の警察力は太刀、弓が中心で、鉄砲は火縄銃の範囲を出ない状態であった。
 
また、捕縛された者のうち、4人は無宿ではなく、人別帖に記載された百姓である。ごく一部とは言え、田作りの百姓が厳禁の鉄砲を保有し、勢力富五郎を支えていたという事実は重大である。それは貧民救済をした義侠勢力富五郎の人気をも示している。
 
写真は勢力富五郎の碑(千葉県東庄町 延命寺

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新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎という人

小金井小次郎は、武州多摩郡下小金井村(現・東京都小金井市中町・本町付近)を縄張りとし、数千人の子分を擁したと言われ、明治に刊行の戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった博徒である。また、小次郎は、博打で島流しになったにも関わらず、ご赦免で帰還し、最後は、畳の上で生涯を終えた、世渡り上手な、幸運な博徒である。
 
博徒名)小金井小次郎  (本名)関小次郎
(生没年)文政元年(1818年)~明治14年(1881年) 享年64歳
 
小金井小次郎の先祖「関家」は地元で代々名主、村役人を務め、村屈指の名家である。そのため小次郎も、子供の頃より相応の教育を受けていた。しかし、大人になるといつの間にか、府中の博徒「藤屋万吉」の子分となり、博徒の道を進む。
 
府中の万吉・小次郎の一派は、以前より対立関係にあった現在の東京都小平市付近を縄張りとする博徒小川幸八一派と、小平市の鈴木稲荷神社(通称・二塚稲荷)で一戦を交える。この喧嘩は、万吉・小次郎側150人、幸八側80人と230人の博徒が参加した大喧嘩である。
 
この喧嘩によって、両方の博徒は、関東取締出役に目をつけられ、その後、藤屋万吉は三宅島、小川幸八は八丈島に遠島、小金井小次郎は「江戸石川島人足寄場」送りの処罰を受ける。
 
小次郎は、石川島人足寄場で、その後の人生に影響を与えた江戸町火消十番組頭の新門辰五郎と出会う。辰五郎は小次郎より18歳年上だが、小次郎は、辰五郎の信頼を得て、二人は義兄弟の契りを結ぶ。
 
ある日、二人が数年を暮らした人足寄場が、江戸本郷から出火した大火事で、寄場の囚人も、一時解き放ちの扱いとなった。しかし、小次郎と辰五郎は、寄場に残って消火にあたり、種油が収納されている油蔵に火が及ぶのを食い止めた。2か月後、この大火での活躍が評価され、二人はご赦免となる。
 
ご赦免により小次郎は帰郷したが、親分の万吉は三宅島に遠島中であり、藤屋万吉の縄張りを引き継いで、一家を構える。小次郎はそれからの10年の間に、府中甲州街道から多摩川沿いの一帯まで、関東の大親分として、急速に勢力を拡大していく。一気に勢力を伸ばした要因には、後ろ盾としての、義兄弟・新門辰五郎の後ろ盾があったことは言うまでもない。
 
小次郎は、表面上は府中宿内で煮売屋商売(飯盛旅籠)を経営していたが、実質は博打貸元を営む博徒である。安政2年(1855年)、急速に勢力を広げ、派手な賭博に目をつけられ、小次郎は、関東取締出役に捕縛される。そして、江戸伝馬町牢屋敷入牢になった後、三宅島遠島の刑が決定する。
 
三宅島遠島になった小次郎は、生家や子分たちよりの多額の仕送りがあったため、島の生活には苦労せず、流人にも関わらず、立派な屋敷まで借り、数人の博徒を子分に持ち、島の顔役的存在として、約12年間の島生活を送る。遠島中に、小次郎が出した手紙によると、天草、炭、木綿の反物、絹糸など島の物産を扱う商売で、200両を動かす売買を行っていたという。
 
小次郎は、慶応4年(1868年)5月、ご赦免により品川に戻る。遠島中に、環境は大きく変化し、徳川の時代は終わりに、明治の時代が直前に迫っていた。三宅島から帰ってきた小次郎は、以前と変わらず多摩地域の大親分として明治を迎え、地元の発展とともに、飯盛旅籠商売から貸座敷に商売を広げ、商売は順調に発展していく。晩年には、小次郎は地元の神社に多額の寄付、奉納を行った記録が残っている。
 
多くの博徒が喧嘩や支配権力の手により命を落とす中、小次郎は明治14年、娘と子分たちに囲まれて、64歳の生涯を畳の上で終えている。国定忠治清水次郎長のような派手な逸話はないが、江戸末期から明治を生き抜いた関東一の博徒である。
 
 
写真は小金井小次郎の墓。東京都小金井市中町 西念寺にある。
鴨下家と関家の墓所。中央は小金井小次郎の追悼碑

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八丈島を島抜けした「博徒・佐原喜三郎」という人

黒船来航で騒がしい幕末の天保9年(1838年)7月に、鳥も通わぬと言われた八丈島から島抜けに成功した博徒がいた。総州下総国香取郡佐原村(千葉県香取市佐原)の豪農出身の博徒・佐原喜三郎である。

(本名) 本郷喜三郎 (博徒名) 佐原喜三郎
(生没年) 文化3年(1806年)~弘化2年(1845年) 
       死罪を免れ、江戸追放後、病死。    享年40歳

利根川沿いの佐原村は総州銚子からの米、醤油などの物資集積地として昔より活発な商業地域である。この地域は喜三郎死後も、浪曲、講談の「天保水滸伝」で著名な飯岡助五郎、笹川繁蔵、勢力富五郎などの博徒が勢力を張った地域である。喜三郎の父・本郷武右衛門は関東随一と言われた下総十六島米の小作米600表の収入のある豪農である。喜三郎は本郷武右衛門のひとり息子として溺愛されて育った。そのため相応の教育も受け、一度も無宿人に落ちることもなく、いわばインテリ博徒といえる。

喜三郎は江戸の奉公修行終わった後、佐原に戻り、「伊呂波屋」という料理店を始める。この料理店を舞台に、賭場を開くなど、父親の財力を基盤に次第に博徒として売り出していく。喜三郎が31歳のころ、天保7年(1836年)、喧嘩の末、芝山の博徒・仁三郎を殺害する。喜三郎はこの事件で八丈島遠島刑が決定する。

八丈島に到着した喜三郎は、八丈島の村の一つ中之郷村に配属されたが、持ち前の知識で八丈島の歴史、地理、信仰など多岐にわたる記録を残している。それによれば、当時、八丈島の村は5か所あり、それぞれの人家数、流人数は下記のとおりである。
 村名        人家数(世帯)      流人数(人)
 三根村         200            70
 大賀郷村        400            90
 樫立村         150            70     
 中之郷村        350            70
 末吉村         280            70
 合計          1,380          370

喜三郎は八丈島流刑後、虚無僧・「朝日現象」と名乗り、島内の地理などの状況を把握する。それからからわずか2年後の天保9年(1838年)7月、喜三郎は島抜けを敢行する。その時、島抜けのメンバーにしたのは喜三郎ほか、茂八(36歳)、常太郎(24歳)、久兵衛(24歳)、吉原の遊女・花鳥(15歳)合計7名である。吉原の遊女・花鳥については以前に、このブログで記載した八丈島女流人お豊という人」にその経過が記載してある。

喜三郎らは三根村に隠してあった抜け船で、7月3日夜明けとともに出発、7月5日三宅島あたりで暴風に合い、その後漂流して、7月9日常陸鹿島浦荒野村に漂着した。7人は鹿島神社に参拝まで一緒であったが、その後、喜三郎は花鳥を連れて、故郷の佐原に無事戻った。遊女・花鳥が島抜けを望んだ理由は、死ぬ前に、江戸の両親に一目会いたいためであった。その約束を守るため、喜三郎はすぐに江戸に向かい、花鳥の両親との対面の約束を果たした。

関東取締出役は喜三郎らの島抜けを見逃せば面目丸つぶれである。必死の追捕の結果、島抜けから3カ月後、10月3日、江戸浜町で喜三郎と花鳥が一緒にいるとき、二人は捕縛される。花鳥は、伝馬町入牢から3年後、天保12年4月、江戸引き廻しうえ、うち首となった。その時、差し入れのお金を貯めて、花鳥は吉原遊女の全盛往年のごとく、金襴の打ち掛けに白綸子の袷、襦袢まで新調し、処刑の日に備えた。花鳥、29歳、白の綸子の袷を重ね着し、帯は唐繻子の幅広、水晶の念珠を手にした姿は、白一色の見事な死衣装であったという。

打ち首の役目は、将軍家御腰物試し御用の7代目山田浅右衛門であった。花鳥は、覚悟を決め、処刑場では微笑みさえ漏らしている。さすがの浅右衛門も躊躇したものの、ここでしくじっては家門の恥と気を取りなし、刀の峯に上半身を乗せて断首したという。

一方、喜三郎は花鳥斬首後も、足かけ8年牢獄暮らしののち、牢名主の功績により、死罪から永牢へ、ついには江戸10里四方追放と次々に減罪された。島抜けの重罪について死罪から助命への減罪は奇跡に近い。これには当時、米国船モリソン号浦賀来航、羽倉外記による伊豆七島巡視、蛮社の獄など、日本近海の国防問題が背景にあった。幕府上層部は、水野忠邦の天保改革の反動、八丈島付近の外洋の事情について、学問のあるインテリ博徒喜三郎の実体験による生の情報が欲しかったと思われる。

江戸追放後、喜三郎は長年の牢獄暮らしで、肉体はボロボロ、故郷佐原までの帰りの道中もままならない重態であった。やむなく江戸に残り、養生に努めるも、江戸追放発令からわずか1カ月後、弘化2年(1845年)6月3日、波乱に満ちた40歳の生涯を終える。島抜けの大罪人が畳の上で往生するとは、まさに奇跡というほかはない幸運な博徒であった。

blog.livedoor.jp

写真は佐原喜三郎の墓(香取市佐原町 法界寺内)

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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎という人

竹居安五郎とは、伊豆新島から島抜けに成功、地元甲州に帰還、黒駒勝蔵を子分にもつ武闘派博徒で、通称「吃安」の名で有名な博徒である。
 
博徒名)竹居安五郎 (通称)吃安  (本名)中村安五郎
(生没年)文化8年(1811年)~文久2年(1862年)  享年52歳
      石和代官所牢内で獄死
 
竹居安五郎は文化8年、甲州八代郡竹居村(現・山梨県笛吹市)の中村甚兵衛・やすの四男として生まれた。父親甚兵衛は名主も務め、竹居村の草分け的な存在で、村内の上位にランクする自作農であった。名主は代官所の下部組織として、地元の村内統治など、代官の警察権、統治権の一部を付与されていた。当時、甲州は、多数の無宿者、通り者が流れ込み、治安が悪化し、加え、代官所の警察力の低下で、支配統治も混乱していた。そのrため、地主の協力が必要であり、安五郎の父親も新しく新設された「郡中取締役」に任命されていた。

父親亡き後、長兄の甚兵衛が中村家を継いだ。兄も、父親同様「郡中取締役」として村内騒動解決に辣腕を振るったが、二人とも従順な小役人ではなかった。特に、兄の甚兵衛は、無宿者の子分を抱え、賭場を開くなど博徒の親分でもあった。弟の安五郎も39歳の時、度重なる博打喧嘩の罪で無宿となり、江戸送りとなる。それから2年後、嘉永4年(1851年)、安五郎は伊豆新島遠島が決定となる。安五郎40歳のときであった。

新島に到着し、島の生活にも慣れた嘉永5年(1852年)、安五郎は、流人仲間の丑五郎、貞蔵、角蔵の20歳台の若い3人の無宿人から島抜けの相談を受けた。最初は気乗りしなかったが、若者の意気込み負け、ほかに造酒蔵、源次郎、長吉の3人を加えた7人で、一年間入念に計画を練り、嘉永6年(1853年)島抜けを敢行する。

安五郎ら7人は6月8日の夜四つ時(午後10時)、名主の前田吉兵衛宅を襲撃し、家族一人を殺害、鉄砲を奪う。しかし、家族が騒いだため、鉄砲の弾まで奪うことはできなかった。襲撃時に傷を受けた名主はそれが原因で事件後死亡している。

その後急ぎ、腕利きの水主・市郎右衛門、喜兵衛の寝込みを急襲、村で最速の漁船を奪い、深夜、島を出発した。船は伊豆網代浦観音下屏風岩(現在の熱海市付近)に上陸、ほっとして海岸で流人たちが食事をしている間に、水主たちは船に飛び乗り逃走した。

7人は山中に隠れ、それぞれ別々に逃走した。安五郎は地元の博徒を頼りに、三島を経由して地元甲州へ帰還した。無事に帰還できたのは当時、黒船騒動で上陸地沼津藩役人も島抜け流人を捕縛する人員が不足していたためである。

地元に戻った安五郎は兄の甚兵衛と檜峯神社神主武藤外記の庇護の下、黒駒勝蔵ら子分を集め、昔の勢いを復活した。家康公を祭る神官武藤家は、関東取締役の管轄外で追手の手が及びにくかった。しかし、兄の甚兵衛が急逝したのち、幕府の追及の手が迫り、関東取締役も面目をかけてあらゆる手段を行使して、安五郎の居所をみつけ、ついに捕縛した。

捕縛された安五郎は石和代官所に留置された。その後、牢内で毒殺とも、拷問攻めで殺害されたとも言われている。それは黒駒勝蔵らの子分たちが神官武藤家の支持の下、安五郎を奪い返しに襲ってくることを恐れたためと言われている。

安五郎と一緒に島抜けした他の流人のその後の消息も明らかになっている。7人のうち、丑五郎、貞蔵、造酒蔵、源次郎の4人は、江戸で捕縛、市中引き回しのうえ、磔、獄門となった。しかし、残りの角蔵と長吉の二人の消息は不明である。

竹居安五郎の島抜けが成功したのはまさに幸運である。新島の流人帖を見ても、宝永2年(1705年)から慶応3年(1867年)までの162年間で、19件、78人の流人が島抜けに挑戦し、成功例はわずか3件にすぎない。

安五郎の成功は、潮の流れをよく知った腕の良い水主が居たこと、幕末黒船騒動で役人の人手不足で追及の手が及ばなかったことの二つが重なったこととによる。
しかし、島抜け、名主まで殺害した博徒が、その後10年近く捕縛されず、堂々と生きているのは当時の警察制度がいかに弱体化していたかを証明している。また、黒駒勝蔵が親分安五郎を匿った罪で各地逃亡せざるを得なくなったのはその後の話である。
 
写真は竹居安五郎の墓。(誠院諦悟日道居士)
笛吹市石和町唐柏の常在寺にある。墓石の側面には、「嘉永七巳年十二月五日 安五郎墓」と刻まれている。嘉永7年は安五郎が島抜けし、甲州に潜伏中でまだ生存している。この墓は追手の目をくらますために子分の石原市五郎が建てたと言われている。

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平井一家三代目原田常吉④(博徒史 その10)

晩年の原田常吉の行動を知らせる新聞記事が扶桑新聞に載っているので下記に紹介する。

「侠客の美挙」  (明治31年10月28日付けの新聞記事)
 「三河国宝飯郡豊秋村大字平井、原田常吉は名を遠近に知られたる侠客なるが、去る頃より専ら教育等公共事業 に熱心にて、このほど同じ村の第二尋常小学校へオルガン(代金20円)、また伊奈村ほか、二ケ村組合高等小学校へ木銃百挺を寄付せり、奇特なると云うべし。」

常吉は、晩年、「今まで多くの人を傷つけ、殺したりしたことの罪を悔いて、善根を施すことに努め、方々の神社仏閣に寄進したり、日清、日露の両戦争に際して多額の軍資金を献納したり、故郷の平井村一帯、近在の生活の苦しい者に金品を恵んだりした」と常吉実談に述べられている。

地元で、常吉の自宅隣に住んでいた元小学校校長藤田氏の常吉晩年の頃の話が残っている。

親分さんは、背丈が5尺6寸ほどあり、スンナリした体つきで、若いころは好男子であった。近所の人もご隠居と呼んでいました。村人に会うと必ず道を譲り、「ご精が出ますな」と愛想よく声をかけた。
所用で豊橋に出かけて、人力車で帰る時でも、必ず村境で人力車を降り、歩いて家まで帰るのが常で、自宅の門前まで人力車を乗り付けることはしなかった。不思議に思い、尋ねたところ、「村の衆たちが一生懸命に働いているのに、無宿渡世であった自分が人力車で玄関まで乗りつけては相すまぬ。」との返事だった。

時折、修行中の渡世人が立ち寄ることがあっても、草鞋銭を渡したうえ、「渡世人は決して堅気のひとに嫌われるような行いをしてはいけない。」とよく諭しておりました。
ある時、初老の物乞いが幼い子供を連れて自宅の門口に立ったことがあった。親子はボロボロの衣服を着て、子供の頭は毛じらみでいっぱいだった。ご隠居は、見かねて、衣服を与え、庭先で湯を沸かし、子供の頭を洗髪してやったそうです。常吉親分はそんな慈悲深い親分でしたと語っている。

原田常吉が波乱万丈の生涯を閉じたのは、大正4年2月6日午前1時、享年84歳であった。
一般に博徒と言うと、「無頼の徒」のイメージが強いが、まれには常吉のごとく、本来の男気、または義気を有し、代償を求めず、弱者の味方となり、「弱きを助け、強きを挫く」いわゆる「侠客」「任侠の徒」もいたということを明らかにしたかったのである。

平井一家三代目原田常吉③(博徒史 その9)

次郎長との手打式後、原田常吉は東三河最大の博徒親分にのし上がった。しかし、明治17年の賭博犯処分規則で捕縛され、懲役7年の判決を受けて、名古屋監獄に収監される。この時の原田常吉の獄中での行状を記した資料に「第24号行状碌」という名古屋刑務所文書がある。

常吉の獄中生活はその他の博徒と比べ、抜群に優秀な獄中態度であったという。看守たちの言葉を借りれば、「衆中ニ卓絶デアリ」、「泥中ノ蓮」と言わしめる程、尊敬感を抱かさせた。獄中生活は、看守に常吉の仮釈放ための上申書を書かせるほどであった。上申書よれば、獄中での看病夫としての仕事ぶりは、自ら同囚者の糞尿に接し、汚物を洗い、夜間も衣帯を解くことなく、看病に専念したという。

看守の評価は、常吉のすぐれた統率力、看病夫の際の献身的な奉仕精神、真摯な作業態度が認められたものである。模範囚の立ち振る舞いが評価され、懲役4年で、満期まで3年を残して、常吉は明治21年6月仮釈放された。

出獄後の常吉は血気にはやった頃と変わって、物静かな生活をした。その後、名古屋から戻った兄の亀吉が、宝飯郡下佐脇に帰って、すぐに病死したため、35日の法要後、一家の跡目を弟善六の長男善吉に譲った。

この記事に

 

平井一家三代目原田常吉② (博徒史 その8)

原田常吉は弟の善六を殺した斧八の用心棒を殺害した以降、徐々に一家の勢力も戻ってきた。明治6年、常吉は赤坂宿の旅籠こい屋にて、盟友清水の次郎長と密かに面会した。二人は懐古談のなかで和解の糸口を見つけ、明治13年6月、浜松の料亭島屋で手打式が行われることとなった。その経過は次のとおりである。

明治12年、名古屋の稲葉地一家の日比野善七という者が、清水一家に逗留した際、大政から和解仲裁人に適当な人はいないかと聞かれ、「名古屋で両者の仲裁ができるのは津坂音吉以外はいない。」と答えた。名古屋の音吉に声をかけたところ、ぜひこの大役を引き受けたいと音吉は大いに乗り気で、懇意な地元大親分の鈴木富五郎を訪ねた。

鈴木富五郎が平井亀吉にこの話をすると、亀吉は、「和解は望むところだが、仲裁が津坂では承知できない。今でこそ大きな顔をしているが、もとは名古屋奉行所の岡っ引き上がりだ。どうしても頼むなら、他に頭の重い親分を一人、二人引き出さなければ駄目だ。」と承知しなかった。

翌年、明治13年、亀吉は木曽福島まで用事で行ったおり、信州まで足をのばして、昔からの兄弟分の相川平作(又五郎)の墓参りをした。相川一家は平作の倅の平三が跡目を継いでいたが、まだ若いため、後見人として身内の倉吉が仕切っていた。清水との和解の話を聞いた倉吉は、「雲風の親分、平作親分の死後、見る影もない相川一家ですが、その仲介の役を平三にやらせて下さい。」と頼んだ。亀吉は平作への供養になるのならばと思い、「俺に異存はない。だが、清水の意向を確かめねばならぬ。」と答えた。倉吉はすぐに清水に飛び、次郎長の了解を取った。

しかし、当初、最初に話のあった津坂音吉の顔をつぶすわけにもいかず、丁度その頃、鈴木富五郎のところに富五郎の兄弟分で、浜松の斉藤善五郎が滞在していたので、津坂音吉を呼び、斉藤善五郎を通じて話をした。
名古屋、浜松の親分の手前、音吉も納得して、相川平三、斉藤善五郎、津坂音吉の3人の仲裁役が決まった。
回りまわった手続を経て、やっと手打ちにたどり着いたのである。

手打ちの場所は遠州浜松に決まり、警察に許可求めたが、何百人の博徒が繰りこむと聞いて、警察も尻込みをした。なんとか、祭礼の日にまぎれてやるのならば良いと許可が出た。手打ち式の当日に集まった博徒は、両方で千人。これだけの、親分、顔役がそろったのは未曽有のことであると「常吉実歴談」に書き記されている。