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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

長寿を全うした博徒・大前田英五郎という人

歴史

大前田英五郎(栄五郎とも書く)は、国定忠治より18歳、年長で忠治から「おじご」と呼ばれ、同盟関係にあり、また、忠治の保護者でもあった。大前田英五郎は、上州勢多郡大前田(現・前橋市大前田町)に生まれた。父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父も博徒であった。子供の頃より、火の玉小僧とあだ名され、身長高く、顔色浅く黒く、かなり肥満していたという。父、兄ともに博徒で、13歳の頃には、すでに博徒になり、関東取締出役の道案内をする佐十郎の子分になった。

博徒名)大前田英五郎  (本名)田島英五郎
(生没年)寛政5年(1793年)~明治7年(1874年)  享年82歳 病死

英五郎が15歳のとき、武州仁手村の清五郎という博徒が父の縄張りの中で、賭場を開いた。英五郎は、父の子分の栄次とともに清五郎の賭場に出かけて、そこにいた者を、清五郎と人違いして殺してしまった。そのため英五郎と栄次は、伊豆から尾張の名古屋まで逃亡し、尾張付近を転々としていた。

尾張の賭場で、尾張領の庄屋に対して賭場の貸し50両の貸金があった。英五郎と栄次は庄屋のところに貸金の取り立て談判に行ったが、その庄屋が目明しをしており、目明しを笠に着て返さない。そこで目明しが一両を包んで出したところ、目明しの妻が「ふだん、賭場の借りは払わないと言って、今回払うのは、臆病ではありませんか」と言って夫を叱りつけた。栄次は怒って、妻を斬り、英五郎はその夫を斬って、そのまま箱根近くまで逃亡した。

尾張藩の探索は急で二人は進退きわまった。この時、尾張藩から江戸屋敷へ送る銀箱が、箱根峠で強盗に奪われた。これを聞いた英五郎は、栄次とともに強盗の所在を探し、この強盗を斬って、名古屋に届けさせた。尾張藩では、前日の罪を免除して、若干の賞を与えた。以来、英五郎は犯罪を犯すと、尾張に逃げ込んで捕縛を免れた。

英五郎は賭博の罪で、佐渡の銀山人足に送られたことがある。佐渡の島破りを計画した。櫓、舵もない船で海に漕ぎ出し、両手で水をかき、なんとか対岸にたどりついた。その後、下野国へ流浪し、その地で博徒の親分をしており、のちに上州に帰った。

上州に戻った当時、派手に縄張りを拡大していたのが国定忠治である。忠治が中風で動けなくなったと聞いたとき、英五郎は手紙で「中風は不治の病で、医者も薬も益がない。」と暗に自殺を勧めた。しかし、忠治は死ぬ気になれなかったという。

旅から旅へ、半生を他国で送った英五郎は、諸国の博徒を支配下に置き、収入は寺銭よりも、博徒からの上げ銭が主に集まってくるように稼業を営んでいた。現在のフランチャイズ本部方式である。明治7年2月、大前田で病没した。享年82歳、博徒としては珍しく、長寿を保った男である。

「あらうれし、行きさきしれぬ死出の旅」
大前田英五郎の墓の側面に刻まれた辞世である。警吏に追われて、一生を終った博徒の辞世らしい。

写真は大前田英五郎の墓。周囲に英五郎の兄の要吉、父母の墓もある。前橋市大前田町の畑の中の墓地にある。

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信州の博徒・間ノ川又五郎という人

歴史
信州長野は、昔から博徒関八州の追手からの逃亡する場所として知られている。国定忠治関八州取締から何回も信州へ逃れている。長野善光寺は全国から参拝者が来るので、博徒が身を隠すには便利なのだ。

間ノ川又五郎も上州生まれで、旅暮らしの結果、信州長野中野村に一家を構えた。幕末の博徒では清水次郎長、黒駒勝蔵、大前田英五郎、天保水滸伝の笹川繁蔵などが有名である。間ノ川又五郎もそれらと比しても遜色のない博徒である。その勢力範囲は、「善光寺平」一帯を中心に、東は関八州、西は美濃中山道、南は東海道、北は越後に及び、子分身内三千人と言われた大親分である。

博徒名)間ノ川又五郎
(本名) 佐山 忠輝
(生没年)文化12年(1815年)~明治8年(1875年)

幕末には、有名な赤報隊「相良総三」に対して、三百人の手勢を応援に出すほどの勢力を持っていた。官軍と幕府軍維新の戦いである飯山戦争では、混乱する地元の治安維持の任を受け持ち、駐留していた尾張藩の警護、兵糧調達の役目をした。戦いでは子分を連れて、尾張藩に従い、越後小千谷に出陣した。

間ノ川又五郎の生涯は波乱万丈である。博徒の常として、副業として「上総屋」という妓楼の経営者でもあった。維新後は、信州中野で起きた百姓一揆である中野騒動において、関係者捕縛の仕事を行い、その功が認められ、中野県庁、その後の長野県庁の正式職員となった。そして明治8年12月に61歳で生涯をとじた。

又五郎没後になるが、明治13年6月の清水一家と平井一家和解の手打ちの仲介の役目を務めたのもこの間ノ川一家で、又五郎の息子であった。間ノ川又五郎の本家である佐山家のお墓は現在、長野湯田中駅の一つ手前、山内町上条駅の近くの善応寺にある。

下記写真は間ノ川又五郎(佐山忠輝)の屋敷跡に建てられた記念碑である。

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義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉という人

歴史

吉良仁吉は村田英雄の歌「人生劇場」で有名な博徒である。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた義理と人情に生きた博徒でもある。

博徒名)吉良仁吉  (本名)太田仁吉
(生没年)天保10年(1839年)~慶応2年(1866年)  享年28歳
      勢州高神山観音寺境内の裏山で喧嘩死

三州吉良仁吉は、三河国幡豆郡上横須賀村御坊屋敷(現・愛知県西尾市)の小作農出身だが、別名「御坊善」の博徒名を持つ父親・太田善兵衛・りきの長男として生まれた。

仁吉は、子供の頃、綿の実買いの手伝いをし、やがて知多郡半田村(現・愛知県半田市)の酢屋に奉公に出る。子供の頃から体格は大きいが、吃音であったらしく、人との付き合いは苦手であった。15歳の頃、半田の奉公先から帰った仁吉は、地元博徒の親分・寺津間之助の子分となる。父親「御坊善」の影響があったと思われる。

仁吉はどのような人物であったのか?
仁吉の姉板倉いちの二男倉蔵の証言が残っている。仁吉が死亡した時、僅か10歳だったが、母親いちに連れられ、仁吉の遺体と対面している。仁吉は幼いころ疱瘡を患い、長じてもその痕が残るあばた顔で、身長6尺(1.8メートル)の大男であったという。

仁吉は、たまたま博徒同志の諍いで相手を撲殺した。そのため、寺津間之助と兄弟分である清水次郎長のもとに博徒修行を兼ねて逃亡している。その後、安政7年(1860年)ごろ地元に戻った仁吉は、間之助のところで再度修業しながら吉良一家を構える。次に仁吉の名が出るのは、清水一家の平井亀吉、黒駒勝蔵襲撃事件の時である。この時、仁吉は子分3人を連れ、清水一家34人の襲撃に参加している。

仁吉が戦死したのは有名な「荒神山の喧嘩」である。喧嘩の発端は勢州桑名の博徒・穴太徳次郎(別名・安濃徳)が、次郎長・間之助と親しい勢州神戸町(現・三重県鈴鹿市)の博徒・神戸長吉の縄張りを奪ったことによる。縄張りを奪われた神戸長吉は仁吉に助けを求めた。たまたまそこに寺津間之助宅に厄介になっていた清水一家の大政が居り、長吉を助けようと立ち上がった。

荒神山一帯では、毎年4月上旬に神社、寺院のお祭りが続く。祭りには地元博徒が野天博打の賭場を開催するのが常である。この祭りの時期に清水一家は長吉一家の縄張り奪還抗争を開始する。三河から伊勢に向った清水側部隊は、清水一家の大政以下9名、吉良一家は仁吉以下7名、神戸一家は長吉以下7名、総勢23名である。対する穴太徳側は、穴太徳次郎、角井門之助以下に雲風亀吉子分20余名を加えた、総勢40余名である。

舞台となった高神山観音寺周辺には標高85メートルの高塚山がある。近くの加佐登神社裏に陣取った長吉側に対し、穴太徳側は高塚山頂上に陣取る。慶応2年4月8日朝、戦いの火蓋が切られた。穴太徳側は漁師に鉄砲を持たせ、「先ず肥大の者を撃て」と、大政と仁吉を狙い撃ちさせたところ、仁吉が撃たれた。仁吉が木の根元にしゃがみ、槍を肩にかけ苦しんでいると、穴太徳側の角井門之助が仁吉を見つけ斬りかけた。仁吉が槍で防いでいると、そこに仁吉を探していた長吉の子分久居才次郎が駆けつけ、門之助を斬り倒したという。敵将門之助を討ち取られた穴太徳側は戦意を失い、総崩れ逃走した。

重傷を負った仁吉は戸板で山下まで運ばれたが、鈴鹿郡上田村から石薬師に至る途中の畑で絶命した。享年28歳の若さである。この喧嘩で即死した者は、穴太徳側は角井門之助はじめ5人、一方、長吉側の即死者は、仁吉の子分船木幸太郎、清水一家の大五郎以下4人という。また、長吉側の重傷者は、吉良仁吉以外に3名いる。清水一家の大瀬綱五郎・清次郎、長吉一家の糸屋市五郎である。軽傷者は、清水一家が保太郎・勝太郎、吉良一家が松坂米太郎・伏見桃太郎・小山田丹蔵、長吉一家が四日市敬次郎・久居才次郎・神戸宇吉の合計9名である。

浪曲では、仁吉の妻は穴太徳の妹「きく」とされ、荒神山へ出かける直前に、仁吉は新妻であるにもかかわらず離縁して決意を固めたとしている。つまり「義理と人情」のため、命を落とす任侠道の世界と美化された由縁である。しかし、仁吉の姉いちの子である板倉倉蔵は、「仁吉には真の女房というものはなかった」と、後日、語っている。創作にしても義理を通して若くして逝った吉良仁吉の生き方が、人々の心に通じるものがあったのかもしれない。

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写真は吉良仁吉の墓  源徳寺(愛知県西尾市

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関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎という人

歴史

武州熊谷石原村(現・埼玉県熊谷市)の無宿幸次郎という博徒をご存じであろうか?

石原村幸次郎は、嘉永2年(1849年)、武蔵国熊谷宿あたりに突如出現し、武装したアウトロー集団を結成、次々と殺人、強盗、拉致傷害などしたい放題、挙句の果てに逃亡、甲州から駿河と、行く先々を荒らし回り、甲州に舞い戻り、信州までわがもの顔で横行して、悪の限りを尽くした博徒一味の頭目である。最後は、甲州勤番に捕縛され、江戸小塚原の刑場の露となった博徒である。この騒動は、幕府の治安警察力を蹂躙し、その組織の弱点を露呈させた。しかし、無宿幸次郎の名はほとんど知られていない。

博徒名)石原村幸次郎  (本名)石原村無宿幸次郎
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
      江戸小塚原刑場で獄門

関東取締出役が、石原村幸次郎一味の悪行を把握したのは、嘉永2年8月のことである。幸次郎は、熊谷宿の絹商人を襲って300両を強奪、道案内の板井村の八五郎を恐喝して金を奪い、熊谷宿髪結い林蔵の女房さくを拉致するなど、悪党ぶりを見せつけた。一味の総勢は21人、長脇刀、槍、鉄砲まで携帯、武装し、電光石火のごとく犯罪を起こし、神出鬼没、逃げ足も速い。

嘉永2年は関東取締出役とって大変な年であった。この年、下総利根川流域では博徒・勢力富五郎一味が大暴れし、その捕縛に必死であった。関東取締出役の手勢だけでは幸次郎一味を捕縛は困難である。そのため関東取締出役の指揮、命令下にある各村の自衛組織の「改革組合村」を利用した。幸次郎一味捕縛のため各村に改革組合村の動員をかけ、川越藩の協力も得て、総勢4,000人余りの体制を引いた。しかし、人数は多いが所詮農民等素人の集まりで、お祭り騒ぎ的捕りものでは、費用のみ掛かり、成果は殆どなかった。

幸次郎一味21名は、包囲網を逃れ、武州を南下する。甲州鰍沢博徒の目徳を殺害、駿州一本松新田(現・沼津市)の質屋源兵衛から35両強奪、遠州相良の博徒富五郎を襲撃など次々に事件を起こす。一方、伊豆、駿河支配の韮山代官江川英龍は、捕縛のため最新鋭ドントル銃を持たせた手代を派遣し、幸次郎一味と激突、2名捕縛、1名射殺するも、幸次郎本人は取り逃がした。

信州東山道山岳地帯に逃げ込んだ幸次郎一味は、中之条代官の必死の捜索で、信州岩村田宿(現・長野県佐久市)、長久保宿(現・長野県小県郡)で子分たちを捕縛し、遂に、嘉永2年9月2日、甲州勤番が幸次郎をお縄にした。まさに幸次郎と関東取締出役の疾風怒涛の3ケ月間の戦いにより幸次郎一味は壊滅した。しかし、捕縛は、管轄外の韮山代官、中之条代官、甲州勤番の手によるものである。これはいかに、関東取締出役の警察力が弱体化していたかを示している。

捕縛された14人の構成は、無宿9人、百姓4人、浪人1人である。幸次郎は江戸送り後に獄門、5人は死罪、2人は吟味中牢死、残りの6人は不明である。

江戸後背地の関八州は、御三家水戸藩以下、譜代、旗本の知行地、直轄領であるが、幕府に裁判権、警察権の権限のない分割支配地である。しかも相互複雑に錯綜しており、集中統一支配は困難を極めた。したがって、関東取締出役の警察力の拡充は最後まで未了のままに終わったのである。

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一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵という人

歴史

幕末から明治にかけ、武蔵国多摩郡博徒に、小金井小次郎と小川幸蔵の二人がいた。だが、小川幸蔵は世間によく知られた博徒ではない。北島正元長の著書「幕藩制の苦悩」は当時の博徒について次のような記述がある。

博徒の本場と言われた上州には、国定忠治のほか、大前田英五郎(勢多郡大前田村)・栄次(勢多郡月田村)・三木文蔵(新田郡世良多村)・高瀬仙右衛門(邑楽郡上高島村)などの貸元がおり、下総の飯岡助五郎・笹岡繁蔵武州の小金井小次郎、府中の田中屋万吉、高萩の鶴屋万次郎、小川幸蔵などの親分連中が全国に名を響かしていた。」と名前が出るが、所詮、小悪党である。とても、全国に名を響かせる程の博徒ではない。唯、資料に名前だけはよく出てくる博徒である。

小川幸蔵は、慶応2年(1866年)6月、武蔵国秩父郡名栗村(現・埼玉県飯能市)で発生した大規模な百姓一揆の鎮圧に参加して、韮山代官に恩を売った。しかし一方では、地元百姓から金銭を無理借りして、借金を踏み倒しするなどあまり評判の良くない博徒であった。

博徒名)小川幸蔵  (本名)小山幸蔵
(生没年)天保2年(1831年)~明治17年(1884年)  享年54歳
      八王子警察署に服役中、病気で牢死

小川幸蔵が住んでいた武蔵国多摩郡小川村は、江戸近郊の新宿と青梅を結ぶ青梅街道の中間に位置し、江戸時代初期に新田開拓された村である。青梅街道は、以前、江戸への石灰需要を支える動脈である。その後は、江戸向けの野菜や薪炭を運ぶ街道として、幕末には上州、甲州と並ぶ養蚕地として多摩地方から横浜への生糸運送の動脈として発展していった。生糸による貨幣経済成長とともに、同時に博徒の根拠地ともなった。

小川幸蔵はもともとは土地持ち本百姓の出身である。しかし、父親の小川幸八が無宿博徒となってから、その子供の幸蔵も同様に無宿の博徒となっていく。

天保15年(1844年)、小川幸八は、小金井小次郎との抗争で、小次郎は江戸佃送りに、幸八は八丈島送りとなった。幸八は、八丈島で17年、流人として暮らす。そして幸八は万延元年(1860年)仲間30人とともに島抜けを図るが、失敗する。その際、八丈島樫立村の名主兵吉を殺害し、追い詰められ自殺している。

26歳のとき、小川幸蔵は、近くの村の神社の祭りで仲間とともに百姓らに対して傷害事件を起こす。韮山の役人の追及を逃れるため、幸蔵は小川村から脱走し、無宿となる。しかし、姿を隠したのは表面上で、現実は村内で茶屋渡世を営みながら、博徒の勢力を維持していた。

その当時、秩父郡名栗村から始まり、関東一円に拡大した百姓一揆武州世直し一揆)が発生した。一揆の鎮圧部隊として編成されたのが、秩父郡田無村名主下田半兵衛が率いる田無農兵隊である。幸蔵一党は、この田無農兵隊と連携協力して、一揆鎮圧に成功する。一揆鎮圧での幸蔵の行動は、名主に高く評価され、幸蔵の帰村が許される。

明治2年(1869年)、新政府の警察権力の空洞を埋めるため、幸蔵は、韮山県から一揆における功績もあって、治安維持の役目を受ける。しかし、幸蔵は、自分自身は直接悪事をしないが、配下の50人程の子分を使って相変わらず、無法を行っていた。地元の百姓も遂に我慢できず、県に訴えを申し出、明治4年(1871年)4月、品川県に捕縛され、5年間の流刑(准流)を受ける。

その後、賭博の罪で懲役4年の刑を受けた小川幸蔵は、八王子警察署服役中の明治17年6月、肋膜炎兼肺炎で死去する。享年54歳であった。

次郎長兄弟分博徒・寺津間之助という人

歴史

寺津間之助(本名・藤村甚助・父親の名を襲名した。)は、清水次郎長より一つ年上で、次郎長と4分6の兄弟分の杯を交わした、三州幡豆郡寺津村(現・愛知県西尾市寺津町)の博徒である。幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣屋(現・愛知県碧南市)の支配下にあった。三河平野一帯は三河木綿の栽培地で、三河木綿の綿打ちが盛んに行われていた。寺津港は綿花、木綿、さらには古くからの吉良の製塩「饗庭塩」の物資集積地として繁栄していた。その物資は清水、伊豆経由で廻船で江戸に送られていた。

間之助は、父親の跡を継いで藩から十手取り縄を預かり、言わば博徒との二足草鞋を履いていた。身長、5尺6寸(1.76メートル)体重、24、5貫(90キロ強)と相撲取り並みの大柄で、寺津港に百石船3隻を保有、海運業でも稼いでいた。しかし、間之助の性格は、人との争いを嫌い、博徒渡世人としては、珍しく穏健な人物であったようである。

そんな間之助の性格が好まれたのか、清水次郎長は清水に居られなくなると、いつも寺津間之助の家に逃げ込み、常に間之助は次郎長の良き支援者であった。次郎長の妻、三代目お蝶は、
三河西尾藩の侍、篠崎東吉の娘であり、同藩の侍と一度結婚して、清太郎という一子をもうけたが、その後離婚し、清太郎は後に次郎長の家に引き取られている。

若き頃、次郎長は、寺津に逃亡滞在中、吉良の博徒親分である備前浪士・小川武一の弟子となり、昼は猛稽古に励んだと「東海遊侠伝」に記述がある。博徒剣法の修行も三河寺津で習得したわけである。

昭和2年発行「名古屋地方裁判所管内博徒ニ関スル第2調査書」によると、吉良一家の項があり、「吉良一家は、嘉永期(1848年~54年)に初代寺津治助が立ち上げ大いに勢力を振るい、清水次郎長食客となった。治助の跡目は実弟の藤村間之助で、次郎長と兄弟分となり、連携して勢力を拡大した。子分には大田仁吉(吉良仁吉)がおり、膂力胆力群を抜く存在となり、間之助は跡目を仁吉に譲った。」と記述されている。しかし、これは間違いで、吉良仁吉は寺津間之助の身内子分であり、その後、仁吉の吉良一家は寺津一家から独立、一家を立ち上げたもので、両方を混同している。

寺津間之助には実子に定五郎がいるが、堅気で、鰻、焼きハゼの商売を行い、藤村家を継いでいる。唯一、博徒になったのは、孫の牛五郎で、祖父・間之助の名声に憬れ、龍の彫り物を入れて、一時、清水一家の食客にもなっている。そのため、藤村家は牛五郎の弟の幸一郎が後を継いだ。

それ以降、寺津一家は博徒稼業を廃業し、普通の堅気となる。よって、寺津身内は初代、兄の寺津治助、2代目、弟の寺津間之助で博徒稼業は終了した。明治になっても博徒として生きた寺津間之助は明治10年10月14日没している。

上の写真は初代・寺津治助の墓。下の写真は二代目・寺津間之助の墓。
愛知県西尾市寺津東市場48 養国寺にある。

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関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎という人

歴史
講談「天保水滸伝」で有名な総州下総国(現・千葉県)の博徒で、二足草鞋で関東取締出役道案内の飯岡助五郎と地元博徒の笹川繁蔵がいた。勢力富五郎は、この笹川繁蔵の子分である。親分の繁蔵が助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちのため、助五郎を狙って、関東取締出役と死闘を繰り広げ、最後に追い詰められ、28歳で自決した武闘派博徒である。その後、絵師歌川豊国が、「近世嘉永水滸伝」で、勢力富五郎の錦絵を描き、一躍、侠客博徒として人気が上がった。
 
博徒名)勢力富五郎  (本名)柴田佐助
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
      総州万歳村(現・千葉市旭市) 金毘羅山中に立てこもり自殺
 
勢力富五郎は、干潟八万石の万歳村(現・千葉県旭市)に生まれ、江戸大相撲力士を志願、雷権太夫入門、三段目まで昇格した。しかし、その後廃業、博徒の世界に入り、笹川繁蔵の子分となる。弘化4年(1847年)、親分繁蔵が、関東取締出役の手先飯岡助五郎の息子の堺屋与助に闇討ちされた後は、関東取締出役と対決、闘いを挑んでいく。
 
嘉永2年(1849年)12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことが決定した。ところが下総東部、利根川下流域では、無宿の博徒勢力富五郎とその子分が関東取締出役の追及を尻目に無法を尽くし、跋扈していた。この地域は江戸の後背地として、九十九里の干鰯と銚子の醤油の一大地場産業地であり、活気を帯びていた。そこに博徒らも入り込み、加えて、将軍鹿狩りもあり、治安維持は重大事であった。関東取締出役は面子にかけても、勢力富五郎捕縛をする必要があった。
 
関東取締出役は、関八州東海道からの応援も受け、道案内、岡っ引き500人以上を集合させ、富五郎捕縛に向かわせた。ところが、勢力富五郎は鉄砲などで武装しながら、一味の行方は知れず、捕縛は困難をきたした。この地域は、この騒動の翌年に脱獄囚高野長英も潜伏したことがあり、お尋ね者が身を隠す格好の地域であった。また、二足草鞋の飯岡助五郎と関東取締出役の裏での結託を知る地元の人々は、勢力富五郎に同情し、判官贔屓に傾いていた。そのため万歳村の名主・井上治右衛門等は勢力一派を密かに自宅に匿い、情報も筒抜けの状態であった。
 
業を煮やした関東取締出役上層部は、地域外の常州土浦藩の名主内田佐左衛門を道案内にスカウトし、勢力富五郎捕縛の切り札に投入する。内田佐左衛門は勢力一味が潜伏する一帯をしらみつぶしのローラー作戦で包囲網をじわじわ狭めていった。
 
本拠地の万歳村の隠れ家を出た勢力富五郎と子分たちは八重穂村を抜け、小南村金毘羅山の山頂に鉄砲を武器に立てこもる。このことは本家「水滸伝」の梁山泊になぞらえ、江戸の評判となった。しかし遂に、追い詰められた勢力富五郎に付き従うのは、子分の栄助一人となった。二人は関東取締出役のお縄にかかるのは真っ平と、自決を選ぶ。時に嘉永2年(1849年)4月28日、大捕物は52日に及んだ。
 
この騒動で清瀧村無宿佐吉ら9人、今郡村百姓四郎兵衛ら6人、合計15人が捕縛され、江戸送りとなった。そのときに押収した武器は、鉄砲10挺、鑓3筋、長刀2振り、種ケ嶋火縄銃、刀等となっている。幕府は、鉄砲を主体とした武器の質と量に驚きを隠せない。対抗する幕府の警察力は太刀、弓が中心で、鉄砲は火縄銃の範囲を出ない状態であった。
 
また、捕縛された者のうち、4人は無宿ではなく、人別帖に記載された百姓である。ごく一部とは言え、田作りの百姓が厳禁の鉄砲を保有し、勢力富五郎を支えていたという事実は重大である。それは貧民救済をした義侠勢力富五郎の人気をも示している。
 
写真は勢力富五郎の碑(千葉県東庄町 延命寺

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