兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

歴史

明治最後の仇討・臼井六郎事件

浅田次郎の小説に明治最後の仇討の話がある。しかしこれはフィクションで現実の話ではない。現実にあった話は、秋月藩の執政心得臼井亘理夫妻が殺害され、実子の臼井六郎が明治13年に仇討した事件がある。この話は「幕末史談会速記録」に記載されている。 臼…

盗賊・田舎小僧という人

前回、ブログで鼠小僧について書いた。今回、取り上げるのは、鼠小僧ほど有名ではないが、同じく大名屋敷専門の盗賊・田舎小僧である。田舎小僧は、同時期の稲葉小僧と混同されるが、両者は同じ盗賊なのかは、諸説あって、定かではない。本人は「自分は稲葉…

義賊・鼠小僧次郎吉という人

鼠小僧といえば、時代劇ファンでなくとも名前ぐらいは知っているだろう。100軒以上の大名屋敷に忍び込み、3,000両以上の金子を盗み出し、義賊として芝居や講談で取り上げられた。盗賊の中でもヒーロー的存在である。しかし、その実体、素顔はあまり知られて…

死出の旅の往来手形・勘助、草津の旅

高橋敏氏は、著書「江戸の平和力」で、江戸時代の行き倒れ死亡者に対する対応を評価し、江戸時代は予想以上の安心社会であると述べている。内容は、江戸時代の草津温泉療養の旅に出た庶民の旅先での病死の顛末である。 弘化4年(1847年)7月22日、豆州君沢郡…

土佐藩御用達の火消し・相模屋政五郎という人

相模屋政五郎という侠客を知っている人は少ない。博徒ファン仲間でもかなりメジャーな人物である。別名「江戸の相政」ともいう。「相政」にはもう一人、佐渡へ流罪となった渡世人の面倒を見た博徒の親分「佐渡相ノ川の政五郎」がいる。そのため「相模屋政五…

悲劇の博徒・笹川繁蔵という人

「利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」講談、映画で有名な大利根月夜の舞台であり、天保水滸伝として、笹川繁蔵、用心棒・平田深喜(別名・平手造酒)と飯岡助五郎との大利根川の決闘は良く知られている。 笹川繁蔵の生家岩瀬家は、須賀山村の東南に…

次郎長の兄貴分博徒・津向文吉という人

津向文吉は、駆け出しの頃の次郎長が喧嘩の仲裁をした相手方で、それを機会に次郎長の兄貴分となった博徒である。文吉は、温厚な性格で、男盛りの39歳で、八丈島に島流しになったため、あまり知られていない博徒である。しかし、細面で品のある二枚目の色男…

喧嘩しない大親分博徒・蕎麦亀という人

博徒というと国定忠治、黒駒勝蔵、清水次郎長などの名しか思いつかない人がほとんどだろう。しかし、世間的に名も知られていないが、博徒として歴史に名を残しても良い博徒がいる。歴史的有名人だけが優れているのではない。無名でも優れた博徒がいる。特に…

賊軍旧幕兵士戦死者を埋葬した博徒たち

明治維新で賊軍幕府側戦死者の遺体収容の行動を取った博徒は少なくとも4人いた。 中でも最も有名なのが威臨丸の清水次郎長である。新政府に反旗を翻した旧幕府海軍榎本艦隊威臨丸が台風に遭遇、破損して駿府藩の外港清水に緊急避難した。艦長小林文次郎は駿…

次郎長より有名な博徒・森石松という人

森石松というと東映映画30石船の「寿司食いねえ」の中村錦之助を思い出す。片目でドモリのおっちょこちょいのやくざという印象である。清水一家では一番有名な子分である。しかしその実像は謎が多い。存在そのものが架空という人もいる。清水一家での活動期…

悪者博徒の代表・飯岡助五郎という人

飯岡助五郎は天保水滸伝では悪者博徒の代表である。子供の頃、見た映画では、配役は笹川繁蔵を高田浩吉、平手造酒が鶴田浩二で、非常に恰好良く、飯岡助五郎は近衛十四郎であり、いかにも憎たらしかったことを覚えている。助五郎は関東取締出役の目明しの二…

次郎長のお目付け役博徒・安東文吉という人

安東文吉は駿河国府中(現・静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の博徒である。別名「暗闇の代官」「日本一の首つなぎ親分」と呼ばれ、その評価はさまざまである。 (博徒名) 安東文吉 (本名) 西谷文吉(生没年) 文化5年(1808年)~明治4年(1871年) …

品川台場建設に貢献した博徒・大場久八という人

大場久八は、韮山代官江川太郎左衛門の要請により、兄弟分である甲州豪商天野海蔵とともに、品川台場建設に協力した博徒として有名である。 (博徒名) 大場久八 (本名) 森久治郎 (生没年) 文化11年(1814年)~明治25年(1892年) 享年79歳 上州への旅…

悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵という人

黒駒勝蔵は、清水次郎長の敵役として有名で、その生涯は喧嘩に明け暮れ、最後には官軍の兵士でありながら、博徒の罪で処刑された謎多き運命をたどった博徒である。 (博徒名)黒駒勝蔵 (本名)小池勝蔵(生没年)天保3年(1832年)~明治4年(1871年) 享年…

偽官軍の名で殺された美濃博徒・水野弥三郎という人

皆さんは幕末に偽官軍として、信州下諏訪で処刑された「赤報隊」のことをご存じだろうか?その後、昭和になって亡霊のように、朝日新聞襲撃事件において「赤報隊」の名が使用された。この赤報隊に深く関わり、最後は自ら縊死した博徒が水野弥三郎である。 (…

ヒーロー博徒・国定忠治という人

国定忠治を、幕府代官の羽倉外記が「赤城録」で、「凡盗にあらずして劇盗なり」と言わしめたのは、忠治が相応の学問を修め、かつ剣術にも深くかかわっていたためである。「盗」とは人の守るべき道に外れていることを意味する言葉である。忠治は、赤城の山に…

会津小鉄という人

京都の会津小鉄会が山口組の抗争で話題となっている。会津の小鉄は関東の大前田英五郎、東海の清水次郎長に対して関西の小鉄と呼ばれた博徒である。生まれはどこかわからないが、秩父、坂東、西国、四国巡礼を母親とともに放浪旅をしながら育ったと言われて…

美談で作られた火消の頭・新門辰五郎という人

新門辰五郎は、江戸浅草金竜山浅草寺に住み、鳶仕事師の親分、町火消十番組の頭であり、浅草寺の香具師、大道商人等の総元締めである。 辰五郎は、寛政12年(1800年)下谷山崎町飾り職人中村金八郎の長男として生まれ、その後、上野輪王寺の家来町田仁衛門の…

長寿を全うした博徒・大前田英五郎という人

大前田英五郎(栄五郎とも書く)は、国定忠治より18歳、年長で忠治から「おじご」と呼ばれ、同盟関係にあり、また、忠治の保護者でもあった。大前田英五郎は、上州勢多郡大前田(現・前橋市大前田町)に生まれた。父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父…

信州の博徒・間ノ川又五郎という人

信州長野は、昔から博徒が関八州の追手からの逃亡する場所として知られている。国定忠治も関八州取締から何回も信州へ逃れている。長野善光寺は全国から参拝者が来るので、博徒が身を隠すには便利なのだ。 間ノ川又五郎も上州生まれで、旅暮らしの結果、信州…

義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉という人

吉良仁吉は村田英雄の歌「人生劇場」で有名な博徒である。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた義理と人情に生きた博徒でもある。 (博徒名)吉良仁吉 (本名)太田仁吉 (生没年)天保10年(1839年)~慶応2年(1866年) 享年28歳 勢州…

関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎という人

武州熊谷石原村(現・埼玉県熊谷市)の無宿幸次郎という博徒をご存じであろうか? 石原村幸次郎は、嘉永2年(1849年)、武蔵国熊谷宿あたりに突如出現し、武装したアウトロー集団を結成、次々と殺人、強盗、拉致傷害などしたい放題、挙句の果てに逃亡、甲州…

一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵という人

幕末から明治にかけ、武蔵国多摩郡の博徒に、小金井小次郎と小川幸蔵の二人がいた。だが、小川幸蔵は世間によく知られた博徒ではない。北島正元長の著書「幕藩制の苦悩」は当時の博徒について次のような記述がある。 「博徒の本場と言われた上州には、国定忠…

次郎長兄弟分博徒・寺津間之助という人

寺津間之助(本名・藤村甚助・父親の名を襲名した。)は、清水次郎長より一つ年上で、次郎長と4分6の兄弟分の杯を交わした、三州幡豆郡寺津村(現・愛知県西尾市寺津町)の博徒である。幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣…

関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎という人

講談「天保水滸伝」で有名な総州下総国(現・千葉県)の博徒で、二足草鞋で関東取締出役道案内の飯岡助五郎と地元博徒の笹川繁蔵がいた。勢力富五郎は、この笹川繁蔵の子分である。親分の繁蔵が助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちのため、助五郎を狙って、…

新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎という人

小金井小次郎は、武州多摩郡下小金井村(現・東京都小金井市中町・本町付近)を縄張りとし、数千人の子分を擁したと言われ、明治に刊行の戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった博徒である。また、小次郎は、博打で島流しになったにも関わらず、ご赦免で…

八丈島を島抜けした「博徒・佐原喜三郎」という人

黒船来航で騒がしい幕末の天保9年(1838年)7月に、鳥も通わぬと言われた八丈島から島抜けに成功した博徒がいた。総州(下総国)香取郡佐原村(千葉県香取市佐原)の豪農出身の博徒・佐原喜三郎である。 (本名) 本郷喜三郎 (博徒名) 佐原喜三郎 (生没年…

新島を島抜けした博徒・竹居安五郎という人

竹居安五郎とは、伊豆新島から島抜けに成功、地元甲州に帰還、黒駒勝蔵を子分にもつ武闘派博徒で、通称「吃安」の名で有名な博徒である。 (博徒名)竹居安五郎 (通称)吃安 (本名)中村安五郎 (生没年)文化8年(1811年)~文久2年(1862年) 享年52歳 …

平井一家三代目原田常吉④

晩年の原田常吉の行動を知らせる新聞記事が扶桑新聞に載っているので下記に紹介する。 「侠客の美挙」 (明治31年10月28日付けの新聞記事) 「三河国宝飯郡豊秋村大字平井、原田常吉は名を遠近に知られたる侠客なるが、去る頃より専ら教育等公共事業 …

平井一家三代目原田常吉③

次郎長との手打式後、原田常吉は東三河最大の博徒親分にのし上がった。しかし、明治17年の賭博犯処分規則で捕縛され、懲役7年の判決を受けて、名古屋監獄に収監される。この時の原田常吉の獄中での行状を記した資料に「第24号行状碌」という名古屋刑務所…