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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

「小渕志ち」という人

今から120年ほど前、明治12年、東海道二川宿に伊勢参りに行く駆け落ちの夫婦が逗留した。

この旅人に宿の者が「どこから来なすった」と聞けば、上州(群馬県前橋市)からだと言う。「それなら繭から糸を作ることはご存じか」と尋ねると「それが商売ですわ」と答えた。そうすると地元の者は何人か押しかけ、繭から糸を作ることを教えてくれ、できることならここに定住してほしいと懇願した。

これまで地元では蚕を育て繭を作ることはできても、糸を作ることはできなかった。夫婦は地元の人の熱意に打たれ、二川(豊橋市二川町)で製糸場を作った。

夫「中島徳治郎」は数年後に亡くなるが、残された妻は「小渕志ち」と言い、製糸場を営む。よそ者のため、まともな繭は集まらず、当時「くず繭」として見向きもされなかった「玉繭」から糸を取り出す方法を成功させた。そして玉糸製糸場(夫の名の一字を取り、糸徳製糸場と名付けた)を創業した。

その後同業者も増え、明治35年には輸出も開始され、豊橋は玉糸生産で全国の8割を占めるようになり、「蚕都豊橋」「糸の町豊橋」と呼ばれ、繭取引所まで創設された。

蚕都豊橋にとって「小渕志ち」の功績は偉大であるが、その生い立ちはあまり知られていない。小渕志ちは上州の上野国石井村で生まれ、15歳のとき、製糸工場に働きに出て、1年で独立、糸の座繰業を始めた。

 

17歳で結婚、盲目の娘を出産するも、夫の暴力にあい、仕事で知り合った小島徳治郎と駆け落ちをして、二川の宿にたどり着いたのだ。その時、小渕志ちは32歳であった。

時は明治、恋愛も結婚も自由でない時代、駆け落ちの二人は二川で虚偽の戸籍を作る。近所の大岩寺和尚(二村洞恩和尚)も二人を憐れみ保証人となる。しかしその事が罪となり、和尚は罰せられ、牢死。夫は下獄後、犠牲となった和尚の死を苦にして、絶食して死んだ。

残された小渕志ちはよそ者、無学、罪人の汚名を浴びながら必死で夫の名の付いた工場を守り、二つの工場を建てるまで事業を発展させた。そして盲目の娘も二川に呼び寄せ、女工のための女学校まで作り、昭和4年83歳、その波乱の生涯を終えた。

(写真、資料は下記をクリック)

豊橋市二川町 小渕志ち像|東三河を歩こう

豊橋市 糸徳製糸工場跡|東三河を歩こう