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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

八丈島女流人お豊という人

伊豆七島でも女流人の占める割合は高い。いつの時代にも1人や2人の女流人は必ず存在した。吉原出身の女流人の多さが目立つ。その中に八丈島の三根村に送られた女流人に吉原遊女の「お豊」がいた。

お豊は新吉原京町2丁目伊八店遊女屋「もせ後見仙右衛門」の抱え遊女で花名を豊菊といった。罪科は殺人で、客を平打のかんざしで刺殺した。本来なら獄門だが、殺された客にも落ち度があって、死一等を減ぜられ、遠島となった。文政4年(1821年)お豊がまだ15才の若さときであった。

流されたお豊が八丈島で食べていくには、今まで同様に男流人に体を売って暮らすしか方法はなかった。彼女の小屋には昼間から入れ替わり立ち替わり客が来た。小屋の戸口には先客がいる場合、それを知らせるため四季の花が竹筒に差されていたという。女の武器は強く、間もなく彼女は荒くれ男どもを顎で指図するようになった。

そのお豊より7年遅れて、文政11年、同じ吉原の遊女の「花鳥」が15才で八丈島に送られてきた。2人は同じ三根村に住むこととなった。そして花鳥もお豊と同じような商売を始めた。

その頃お豊はもう22才、荒淫の体は若さを失っていた。それに比べ花鳥は15才若さが体に満ち溢れていた。男は若い花鳥に色目を使う。しかしお豊は姉御肌の余裕で、新人の花鳥をいじめなかった。花鳥もお豊の機嫌を取り、ふたりは仲良く暮らした。若い花鳥に客は多く流れたが、お豊にも、それなりに暮らしていくに十分の需要があった。

こんな生活の中、天保7年(1836年)下総佐原出身の博徒喜三郎が島に流されてきた。豊菊が流されてから15年後、花鳥から8年後である。喜三郎は遊び人だけに要領がよく、若い花鳥に通いながら、お豊にもちゃんと礼を尽くす。「さすが親分だね」と感心しているうちに、島に来て、わずか2年目で、喜三郎は若い花鳥と一緒に島抜けしてしまった。それがまんまと成功した。

お豊は腹が立った。自分に内緒で、若い花鳥と一緒ということが無性に腹が立った。「よしそれなら私もやってみせるよ」と、彼女は自分の家に通ってくる男の中から、女犯坊主の宝禅、御家人崩れの坂本茂三郎、ほかに4人、合計6人の流人を口説き、島の漁船を盗み、島抜けをした。

弘化2年(1854年)6月11日の静かな夜だった。岸を離れると黒潮の急流である。7人ともずぶ濡れになって必死に舟を漕いだ。空も白すみ、近くに黒い島影が見えた。「御蔵島だ、三宅島だ!」と喜び、漕いで行くと船尾で舵を握っていたお豊が叫んだ。「馬鹿、三宅でも御蔵でもないよ。八丈だよ。」彼らは一晩、潮に弄ばれ、八丈島の沖をぐるぐる回っていたのだ。

夜が明けると、島からはそれと追手の舟が追いかけて来た。7人のうち男3人は舟の上で、鉄砲で狙い撃ち射殺された。後の4人は捕えられ、島牢に入れられた。島牢に入れられて、生きて出たものはないと言われる通り、男の3人は牢内で責め殺された。

お豊には銃殺刑が決まった。彼女は処刑場に引き出されたとき、死出の晴れ着に黄の八丈をまとい、薄化粧をしていた。処刑木に縛り付けられると、急に暴れだし、「死んだら毒虫になって、島の作物をみんな食い荒らしてやるぞ!覚えておけ。」と叫びながら、撃ち殺された。

不思議に秋になると、八丈に害虫が大発生して、作物が半減した。島民はお豊のタタリだと恐れ、その害虫のてんとうむしを「お豊虫」と呼んでいる。

参考 流人伝