読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

遊侠の人、博徒 原田常吉という人

歴史

幕末の博徒国定忠治清水次郎長を知っていても、原田常吉を知っている人は少ない。原田常吉(博徒名・平井常吉)とは、幕末から明治にかけて、愛知県宝飯郡小坂井町平井(現在の豊川市小坂井町平井)を本拠として、東三河一円に勢力を有した「平井一家」の三代目親分(二代目は実兄・雲風亀吉)として、その名を知られていた人物である。大正時代まで生存し、85歳で大往生した。

(生没年) 天保2年(1831年)~大正4年(1915年) 享年85歳

(友好博徒)間の川又五郎 (敵対博徒)形原斧八・清水次郎長(後に手打ち和解)

原田常吉は兄の雲風亀吉にならって博徒の道に入り、地元で有名な暴れん坊であったが、権力を盾にして、弱者を抑圧する者に徹底的に反抗する若者でもある。

若いころ、駿河国清水の山本長五郎(のちの清水次郎長)が喧嘩騒ぎで国を逃亡し、三河入りして放浪していた際、原田常吉と知り合い、二人して田原藩中間部屋の賭場荒らしなどに明け暮れていたという。のちに常吉が新居関所への火縄銃発砲事件で逮捕され、江戸送りとなる。唐丸籠で東海道を通過し、たまたま清水に滞在したとき、次郎長が夜陰に乗じて、密に唐丸籠の常吉に、短刀を渡し、籠を破り、脱走するように勧めている。しかし、常吉は、兄の亀吉に累が及ぶことを恐れ、脱走をあきらめ、次郎長の申し出を丁重に断ったという。

このことは「東海遊侠伝」にも記述されており、二人に深い仲間意識があったことを示している。しかしその後、平井一家二代目である兄の雲風亀吉が黒駒勝蔵と兄弟分の同盟を結び、次郎長とは敵対関係となっていく。原田常吉は江戸送りとなったのち、新島へ島送りの刑が決定、維新の大赦まで、約10年間の流人生活を送ることとなる。その間、平井一家と清水一家は吉良仁吉、形原斧八を含め、血なまぐさい抗争が続いた。

明治維新で、原田常吉が三河に戻ると、兄の亀吉は尾張藩の先兵として、戊辰戦争に参加し、名古屋に帰るも、平井一家は消滅寸前の状態となっていた。そのため原田常吉は兄の亀吉の後を継ぎ、平井一家三代目として一家の再建を図ることとなった。

明治6年には次郎長と常吉は、東海道御油宿の「こい屋」という旅籠で久しぶりに面会し、明治13年6月遠州浜松の料亭「島屋」で、信州の間の川又五郎を仲立人として手打ち式が行われた。手打ち和解後は、常吉は天竜川以西から東三河まで勢力を張り、千余人の身内を有する東三河最大の大親分にのし上がっていく。

明治17年1月、明治政府は博徒取り締まりとして「賭博犯処分規則」を施行した。いわゆる「博徒大刈込」である。原田常吉は御油警察署に捕縛され、名古屋監獄で懲役7年の刑を受ける。服役中の常吉の態度は、従来博徒の無頼の徒との考えを改め、修正させ、看守たち自らが減刑の申請書を提出するほど、彼らから尊敬を受けた。

原田常吉は晩年、跡目を弟の善六の長男の善吉に譲り、宝飯郡小坂井町平井で妻きみとともに余生を送った。常吉の東隣に住み、小学校校長を務めた藤田東州氏の思い出話として晩年の生活の様子が扶桑新聞に載っている。

それによると、地元の人は常吉をご隠居と呼び、その温厚な人柄と愛想の良さでみんなに親しまれていた。たまに所用で、豊橋に出かけ、帰りに人力車で帰る時も、決して門前まで乗り付けず、村境で降り、家まで歩いてきたという。村人がその理由を尋ねると、「村の人が一生懸命働いているのに、無職渡世人の自分が車で乗り付けては相すまぬ。」と答えた。また、旅の渡世人が家に立ち寄ると、何がしの草鞋銭を渡し、「渡世人は決して堅気の人に嫌われるような行いをしてはいけない。」諭しておられ、これがご隠居の信条でもあった。

またある日、初老の物乞いが幼い子供を連れ、門前に立った時がありました。親子とも着るものはボロボロ、子供の髪は毛じらみでいっぱいでした。ご隠居は見かねて、衣服を与え、湯を沸かし、庭先で子供の洗髪してやりなされました。博徒とは言え、それなりの人格者であったと言える。常吉の墓は、近くの村の墓地に妻の「きみ」と並んで今もある。

原田常吉の墓  (現在の豊川市小坂井町

戒名は右側が常吉と左側は妻きみの連名となっている。

f:id:shigeaki0303:20170112200037j:plain