兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

船を最大限活用した清水一家の喧嘩

次郎長にとって、博徒として売り出し中であった30歳代半ばのころは、まさに博徒としても危機の時代でもあった。
安政5(1858)年、甲斐の親分祐典仙之助と不和の中で、讃岐の金比羅に詣でたのち、久六を殺害した。
決戦前の金比羅詣は、実父の金比羅信仰を継いだものである。万延元(1860)年、久六殺害の祈願成就に、森の石松金比羅に代参させたが、その帰路の途中で、都田一家に石松が殺され、その仇を討って三河勢力圏に収めた。この頃に、宿敵・黒駒勝蔵が現れる。

甲州の山岳地帯から富士川、天竜川を筏に乗って下ってくる黒駒の機動力に対抗して、次郎長は、縄張りの外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八衆」を元治1(1864)年に創出した。黒駒方の雲風亀吉との2回にわたる三河の抗争は、平井村の役(1864年)と呼ばれ、幕末の博徒抗争史上かつてない殺戮戦だった。

黒駒の勝蔵が平井村(現在の豊川市小坂井町)の雲風亀吉(平井亀吉)のところに滞在していること知った次郎長は、大政、小政以下の中心的な子分を勝蔵、亀吉の襲撃に送り込んだ。朝早く、豊川河口(現在の豊橋市梅藪町)前芝海岸に舟で乗り付けた大政以下襲撃隊は、亀吉の自宅へ駆けつけ、勝蔵たちが昼間から酒盛りの最中を襲った。酒盛りの最中を襲われた亀吉と子分たちは必死で応戦し、親分の勝蔵と亀吉を逃がして、子分6人全員は討ち死にした。この時、酒宴にいた御油宿の遊女であった亀吉の妾も事件に巻き込まれて一緒に殺害されている。
襲われた亀吉の自宅の座敷は、血だまりで染まっていたと言われている。勝蔵、亀吉の襲撃には失敗したが、この襲撃で清水次郎長一家の名前は東海道に鳴り響いた。

幕末の博徒で次郎長ほど舟を活用した博徒はいない。出身が駿河の清水港出身でもあるが、父親の金毘羅信仰にも大きく影響を受けている。平井亀吉、黒駒勝蔵襲撃事件にも清水から三河まで舟を利用している。当時、移動の手段としては最もスピードがあり、不意打ちの襲撃には適している。後の荒神山の戦いにおいても伊勢への輸送手段に舟を活用し、三河の西尾から伊勢まで海を横切っている。この点が山岳出身の黒駒勝蔵と大きな違いがある。

※写真は平井亀吉の墓、隣は亀吉の妻の墓と並んでいる。(豊川市御津町下佐脇字堤願の川沿いにある。)

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