兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

尾張博徒の近藤実左衛門と元相撲取り三州博徒の雲風の亀吉(博徒史 その3)

尾張博徒、近藤実左衛門は、戊辰戦争において尾張藩の代わりに官軍側として戦った地元博徒により編成された戦闘集団「集義隊」の指導者であった。尾張藩藩士を出すのではなく、地元博徒にその身代わりをさせたのだ。


尾張藩親藩として、幕府側に立つべきだが、藩の上層部は、官軍側にも恩を売るため、両方に二股をかけた。その犠牲者が藩とは関係のない地元博徒を中心に組織された戦闘集団「集義隊」である。藩のために戊辰戦争で、武士ではない博徒が最も苦しい闘いをしたのだ。尾張藩は、彼ら博徒を武士に取り立てることを条件に「集義隊」を編成させた。そのまとめ役が近藤実左衛門であった。しかし、戦いから戻ると、尾張藩は何のかんのと言い訳をして、彼らを士族籍にする約束を守らなかった。いわば、彼ら博徒は藩に騙されたのだ。この時から博徒による士族籍回復運動が始まる。

近藤実左衛門は戊辰戦争に従軍する際に縄張りを弟分の伊三に預けたが、身内の瀬戸の愛吉が不在中に瀬戸一家を立て、縄張り争いが始まっていた。実左衛門もその抗争に巻き込まれてゆく。彼は瀬戸一家と血なまぐさい縄張り争いをおこないながらも、士族籍挽回運動の黒幕であり続けた。

この点では雲風の亀吉こと平井亀吉も同じだった。彼は名古屋に滞在中、草莽隊に引き抜かれたが、故郷は三州平井村だ。(現在・豊川市小坂井町平井 豊川河口、JR東海西小坂井駅付近)亀吉も実左衛門同様、武士となることを夢見ていたのである。

亀吉と長い付き合いのあった黒駒勝蔵も戊辰戦争に名前を替えて、官軍に参加した。結局、理由をつけられて、処刑されている。このように、幕末の博徒は、戦闘能力において、武士とは比べもののないほど実力を持っていたため利用価値は高かった。

平井亀吉は甲州博徒黒駒勝蔵と兄弟分であり、二人は清水の次郎長と何度も激闘を繰り返す三河随一の博徒だった。主な縄張りは、旧東海道の宿場、御油宿及び赤坂宿であった。明治になってから、亀吉と次郎長は間に入る博徒がいて、和解した。清水一家と平井一家は、浜松宿の料亭島屋で盛大に手打ち式開催をしている。この時すでに亀吉は平井一家を弟の常吉に譲り、引退していた。この話は『東海遊侠伝』に語られており、講談や映画などでも有名だ。

この時代の三河地方の特徴を述べておきたい。現在の愛知県は当時、尾張三河に分かれていた。尾張尾張藩という大藩が唯一全域を支配していたのに対して、三河は八つの小藩がある。その上、尾張藩や福島藩など他国に本領のある六つの大名の飛地や幕府の直轄領があった。なお、その上に六十余家に及ぶ旗本の知行地があって、それらが錯綜して、領地は細切れ状態であった。どうしてそういうことになったか?

幕府が尾張藩をもって西方に対する備えにした上で三河より東を安全地帯として譜代の小藩をここに集中させたことが一つの理由だ。もう一つは徳川発祥の地である三河は多くの大名や旗本にとって先祖の土地であり、彼らがここに飛地を求めたためであった。こういう土地では警察権力の及ばない地域が出てくる。そこに根を張って、入り組んだ土地を移動すれば、博徒を追捕することは容易ではない。一種の無法地帯となる。当時、三河地方の警察権力は赤坂宿出張番屋が唯一の拠点であった。わずかな人数では三河、半田、西尾の全地区を把握できなかった。

このような土地に有力な博徒が出てくる理由はそこにあった。実際、幕末に有力な博徒を生んだ地域は関東上州、甲州、駿州など幕府の直轄領が多い。こういうところは幕末になると、財政難のために代官や役人が減らされ、その代わりに、土地の博徒に十手を持たせて、警察の代行をやらせた。それでますます博徒は力を持った。駿州の清水次郎長三河の吉良の仁吉、甲州の黒駒の勝蔵、上州の国定忠治など時代劇に出てくるような博徒が実際にいたのである。清水の次郎長の弟分である吉良の仁吉の縄張りは忠臣蔵で有名な旗本吉良上野介の知行地にあった。

士族になることが出来なかった平井亀吉は故郷の三河平井村には帰らなかった。名古屋の一角に住み、金魚の養殖をやったということになっている。しかし、これは表向きのことで、尾張藩に反故にされた士族籍挽回運動の黒幕としての役割を果たさざるを得なかったのだろう。また、名古屋に定着して、そこで勢力を築こうと考えていたのかもしれない。亀吉は、名古屋の町に廓建設の話が出ると「集義隊」の手下を使って土地の買収や利権の交渉に介入して郭一帯の顔役になっている。やがて自らも廓の楼主おさまる。

三州平井村の縄張りはどうなったか?出征中は弟分の善六に任せていた。ところがどんどん縄張りを荒らされたうえ、東海道御油宿の郊外において、善六は清水の次郎長につながる形の原の斧八一家の食客に殺されてしまった。しかし、伊豆新島に流罪になっていた亀吉の次弟の常吉が戻ってきて、善六を殺した下手人を刺し殺し、復讐を遂げて一家の再興を図った。

この事件が渡世人仲間に評判になり子分がたくさん集まり、平井一家は見事に立ち直った。清水の次郎長とも和解して、一家の縄張りは安定した。亀吉は常吉に跡を譲って、隠居の形になっているため、清水の次郎長との手打ちにも出てこなかった。こうして実左衛門も亀吉も表舞台に派手に登場しなくなったが、隠然たる影響力を発揮していた。その後、彼らはいわゆる不平士族や草莽の剣客を集めた「撃剣会」の世話役のような役割も果たすことになる。

亀吉は博徒になる前は、江戸で相撲取りだった。しこ名は雲風の藤八である。最高位は十両まで上がったと言われている。現在、豊川市御津町下佐脇是願の川沿いの墓地に、亀吉お墓が妻のお墓と並んで残っている。
また、近藤実左衛門の本拠地は東春日井郡水野村で、北熊一家を名乗り、名古屋から美濃まで勢力を広げ、博徒の大物として名を挙げた。しかし、次の代を継いだ実左衛門の甥は博徒としての才能がなかったのか、途中で行方不明となり、抗争を続けていた地元東春日井郡瀬戸村の瀬戸一家の傘下となり吸収、消滅した。