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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

清水一家の襲撃に対する平井一家末弟善六の復讐戦(博徒史 その4)

歴史

三河博徒、平井亀吉には善六という末弟がいた。次弟である常吉が新島に流罪中は、亀吉の片腕として賭場の管理など、一家を仕切っていた。清水一家による平井一家襲撃のあった日その時は丁度所用で外出していた。帰宅後、惨劇の跡を見て、善六は地団駄を踏んでくやしがった。「畜生め、俺がきっと仇を取ってやる」と心に決めていた。

その後、善六は西三河にもぐりこみ、10日あまり、情報を集めて歩き、平井亀吉、黒駒勝蔵襲撃隊の大部分が、次郎長の兄弟分の関係となる「形ノ原」「寺津」「吉良」の博徒一家の子分たちで固められ、形の原の斧八の家で勢ぞろいしたこと。襲撃の総大将は大政で、次郎長自身は形ノ原斧八の自宅に留まって、襲撃には参加しなかったことを知った。

次郎長への仕返しは後回しにして、まず斧八に対する復讐を果たさなくては、近国の博徒に対する面目が立たない。平井襲撃以後、旅に出て、行方をくらましていた斧八が、師走も迫った頃、帰宅したとの聞き込みを得て、直ちに形ノ原斧八襲撃を決めた。亀吉は子分の供養のためにも、自身が乗り込むつもりだったが、善六が「清水一家の襲撃でも大親分の次郎長は来ていない。その仇打ちにこっちの大親分が出馬したのでは世間の聞こえが良くない。ひとつここは俺に任せてくれ。」と頼み、形ノ原斧八一家への襲撃の総大将は、善六と決まった。

元治元年十二月二十七日、前日から降っていた雪で三河地方も珍しく3寸ほど積り、雪は降り続いていた。向う鉢巻に白襷、股引き脚絆に身を固めた平井一家の子分28名は善六を先頭に平井村を出発した。三河湾の前芝海岸から船に乗り、昼ごろには形ノ原の磯(現在・愛知県蒲郡市形原町)に到着した。

降り積もる雪を蹴りたてて、斧八の家に突入してすぐに、天地も崩れるばかりの轟音とともに石つぶてが天から降ってきた。思いがけない轟音に平井勢は一瞬、度を失って、地上にひれ伏せた。これは斧八が自衛のためにかねて用意しておいた張り筒に火を投じ、爆発させたのだ。平井勢が、この上どのような仕掛けがあるのかと逡巡している間に、斧八はいち早く裏手から寺津に向けて、逃亡した。

残された斧八の子分たち7名は囲みを破ろうと、戸障子を蹴って、一気に打って出た。雪の中の乱闘の末、一人残らず斬殺され、その死体は屋内に運び込まれて、家もろとも火をつけられ、家屋と一緒に燃やされた。
炎上する斧八の家の前で、平井勢一家は勝どきを挙げる。

襲撃の帰り道は、形ノ原の海岸につないでおいた船の艫綱が切れて、船が流されてしまった。そのため、やむなく陸路を取った。帰り道、西尾藩城下は血刀をさげたままで通り抜けたが、番士たちは気を呑まれて、制止もしなかった。やっと東海道筋に出て、初めて刀を鞘におさめたという。肝心の親分は取り逃がしたが、子分が全員斬殺される点では、平井襲撃と全く同じである。こうして雪中の形ノ原の闘いで、平井一家は雪辱を果たした。それは平井村で清水一家に襲撃された元治元年六月六日から数えてちょうど半年後のことであった。