兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

清水一家の小政の獄死(博徒史 その5)

賭博が社会悪として古くから禁制とされていたことは良く知られている。その歴史、方法は、尾佐竹猛氏の著書「賭博と掏模の研究」に詳しく書かれている。静岡県における明治初期の賭博取り締まりの実例として、「明治初期静岡県史料」第3巻に次のような判決文が載っている。

明治6年2月7日所刑申渡シ左ノ如シ
「賭博 准流5年」  遠江国敷知郡浜松宿新町  雑業    

「由五郎弟政五郎事 吉川冬吉」
其方儀、産業ナクシテ脇差ヲ帯シ歩行、其上博徒共ヲ招結シ、博奕致ス科ニ仍、雑犯律賭博条ヲ以テ准流5年
申付ル

上記は明治の賭博に関する規定により、捕縛され、判決を言い渡された者の例である。「准流」とは、当時、流刑地として定められた北海道の受け入れ態勢が整うまで、別に設けられた過度的な刑罰の一種で、旧幕府時代の流刑罪を懲役に代行させたものである。この判決処罰の理由として、腰刀を差して、横行、博徒を招き集めたうえ、賭博開帳を挙げている。しかし賭博開帳として、判決はかなり厳しい。当時はまだ集団暴力行為が横行し、簡単に殺傷がされていた旧幕府時代と変わらない状態であったため、そのような博徒として処罰されたものと思われる。

浜松宿 吉川冬吉とは、清水の次郎長の子分の一人であった通称「清水の小政」の本名である。彼は天保13年(西暦1842年)12月浜松宿新町で桶屋を営んでいた吉川由蔵の二男として生まれた。家計を助けるため、鶏卵の行商に歩き、浜松宿で次郎長と出会い、浜松の博徒親分、国領屋亀吉と地元の魚問屋のとりもちで、次郎長一家の身内となった。その後、次郎長と養子縁組して「山本政五郎」と名乗った。

明治維新後は、清水一家を離れ掛川宿に移り住み、賭場を徘徊して渡世を送っていた。剣術にすぐれ、その居合抜きは見事で、明治2年の秋、黒駒の勝蔵の残党との闘争では、相手方二人を斬殺したと言われている。今回の判決はそれらの余罪を含んでのことであった。

 

小政が、明治になって清水一家を離れた原因の一つに次郎長の二代目妻のお蝶の暗殺事件がある。明治2年5月22日、次郎長は三河に出かけ、留守を任された大政ら子分も外出した昼過ぎの隙を見透かしたように一人の武士が清水一家を訪ねた。そして玄関で、絹の行商人と値段のやり取りに興じていたお蝶を襲い、斬殺した。お蝶は黒駒勝蔵一派の襲撃と錯覚して、武士に向かい、行商人は素人であるから斬るなと叫んだという。お蝶が殺されたと知った大政、小政の子分たちはその武士を探して出して殺害した。
 
その武士は久能山付近に集結した旧幕府脱走隊の新番組隊士の「山崎某」だった。同志を殺害された新番組隊士らは清水一家に報復を計画した。急ぎ清水に戻った次郎長は騒動鎮静のため、子分たちの軽挙妄動を厳しく諫め、謝罪した。しかし博徒の掟から言えば、姐さんを一方的に殺害され、仇を討ったにも拘わらず、こちらから謝るのは筋目が違うと小政は次郎長のやり方に不満が残った。特に慓悍殺伐の性格の小政は、次郎長子飼いの養子にも拘わらず、親分の「改心」に納得できず、次郎長に背き、喧嘩沙汰を起こして相手を殺害、収監され、釈放後、故郷の浜松に戻り、博打に明け暮れた。

賭博取締によって浜松宿の高町にあった浜松監獄に収監された彼は、刑期中の明治7年5月29日牢獄で死亡している。監獄近くの浜松市板屋町、真道山大聖寺に後年墓碑が建てられた。現在、板屋町の大聖寺は、区画整理により、中区幸4丁目に移転している。寺の話では、小政が牢死したとき、地元で宿屋を経営していた国領屋一家のおかみさんが小政を引き取り、大聖寺に墓を建てたという。享年32歳6ケ月であった。

 

上の写真は浜松監獄の跡地。現在は日本たばこ産業浜松営業所となっている。

下の写真は浜松市中区幸4丁目大聖寺にある「小政の墓」山本政五郎と彫られている。

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