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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

平井一家三代目原田常吉① (博徒史 その7)

博徒に一代記などの伝記は少ない。その理由の一つは、識字力のある博徒が少なく、資料が残っていないこと、二つ、アウトロー的存在のため事実関係を知られたくないことなどが挙げられる。そのため、浪曲、小説などで偶像化された形の伝記が多く、その正確さには問題がある。

原田常吉は、通称平井の常吉と呼ばれ、幕末から明治にかけて、愛知県の東三河地方一円で勢力を有した「平井一家」の親分である。平井一家の初代の小中山七五三蔵は、渥美半島の先端、伊良湖岬に近い小中山村(現田原市)出身である。二代目は常吉の実兄平井亀吉で、三河ではトップクラスの勢力を持っていた。
三代目原田常吉の伝記は「侠客原田常吉」という書物があり、長谷川昇氏の「博徒と自由民権」の中で紹介されている。この伝記は「原田常吉実歴談」ともいわれ、大正2年、名古屋新聞の記者であった中尾霞生氏が常吉本人から聞き取りして、新聞に連載したものである。

原田常吉は「博徒史その3」で述べたように、若いころ清水の次郎長ともに三河各地で賭場荒らしをしていた。次郎長と別れてから、安政2年(1855年)9月、新居の番所に火縄銃を撃ち込んだ罪で、3年余り逃亡の後に捕縛されて、10年間、新島に流刑となった。

新島での常吉は従順な流刑生活をしたため、役人や島の住人の信頼を得て、流人頭になる。流人頭としての働きは親分として博徒を使いこなしてきたため、慣れたものだった。さらに信用され、島の住職に請われて流人から島の寺男になった。その後、島の娘お鶴と結婚し、染物屋を始め、子供も生まれた。満10年になった明治元年、大赦で許され、妻のお鶴と一緒に戻ろうとしたが、妻は島を離れることを反対したため、帰ることもできず、やむえず、常吉は単身で三河に戻った。

常吉が単身でも故郷に戻ったのは、留守中の平井一家が以前の勢力を無くして、一家を管理していた末弟の善六が、敵対する形の原の斧八一家の食客、立川慶之進によって、二川の自宅で謀殺されたためである。戻った常吉は弟の仇打ちで、三河御油宿の掛間橋で待ち伏せし、斧八の用心棒を殺害する。しかし、この時、殺されたのは人違いで、稲川某という用心棒であった。しかし、このことが地元の評判となり、散りじりになっていた子分たちが戻ってきて、以前の平井一家の勢いを戻すことになる。