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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

平井一家三代目原田常吉② (博徒史 その8)

歴史

原田常吉は弟の善六を殺した斧八の用心棒を殺害した以降、徐々に一家の勢力も戻ってきた。明治6年、常吉は赤坂宿の旅籠こい屋にて、盟友清水の次郎長と密かに面会した。二人は懐古談のなかで和解の糸口を見つけ、明治13年6月、浜松の料亭島屋で手打式が行われることとなった。その経過は次のとおりである。

明治12年、名古屋の稲葉地一家の日比野善七という者が、清水一家に逗留した際、大政から和解仲裁人に適当な人はいないかと聞かれ、「名古屋で両者の仲裁ができるのは津坂音吉以外はいない。」と答えた。名古屋の音吉に声をかけたところ、ぜひこの大役を引き受けたいと音吉は大いに乗り気で、懇意な地元大親分の鈴木富五郎を訪ねた。

鈴木富五郎が平井亀吉にこの話をすると、亀吉は、「和解は望むところだが、仲裁が津坂では承知できない。今でこそ大きな顔をしているが、もとは名古屋奉行所の岡っ引き上がりだ。どうしても頼むなら、他に頭の重い親分を一人、二人引き出さなければ駄目だ。」と承知しなかった。

翌年、明治13年、亀吉は木曽福島まで用事で行ったおり、信州まで足をのばして、昔からの兄弟分の相川平作(又五郎)の墓参りをした。相川一家は平作の倅の平三が跡目を継いでいたが、まだ若いため、後見人として身内の倉吉が仕切っていた。清水との和解の話を聞いた倉吉は、「雲風の親分、平作親分の死後、見る影もない相川一家ですが、その仲介の役を平三にやらせて下さい。」と頼んだ。亀吉は平作への供養になるのならばと思い、「俺に異存はない。だが、清水の意向を確かめねばならぬ。」と答えた。倉吉はすぐに清水に飛び、次郎長の了解を取った。

しかし、当初、最初に話のあった津坂音吉の顔をつぶすわけにもいかず、丁度その頃、鈴木富五郎のところに富五郎の兄弟分で、浜松の斉藤善五郎が滞在していたので、津坂音吉を呼び、斉藤善五郎を通じて話をした。
名古屋、浜松の親分の手前、音吉も納得して、相川平三、斉藤善五郎、津坂音吉の3人の仲裁役が決まった。
回りまわった手続を経て、やっと手打ちにたどり着いたのである。

手打ちの場所は遠州浜松に決まり、警察に許可求めたが、何百人の博徒が繰りこむと聞いて、警察も尻込みをした。なんとか、祭礼の日にまぎれてやるのならば良いと許可が出た。手打ち式の当日に集まった博徒は、両方で千人。これだけの、親分、顔役がそろったのは未曽有のことであると「常吉実歴談」に書き記されている。