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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

平井一家三代目原田常吉④(博徒史 その10)

晩年の原田常吉の行動を知らせる新聞記事が扶桑新聞に載っているので下記に紹介する。

「侠客の美挙」  (明治31年10月28日付けの新聞記事)
 「三河国宝飯郡豊秋村大字平井、原田常吉は名を遠近に知られたる侠客なるが、去る頃より専ら教育等公共事業 に熱心にて、このほど同じ村の第二尋常小学校へオルガン(代金20円)、また伊奈村ほか、二ケ村組合高等小学校へ木銃百挺を寄付せり、奇特なると云うべし。」

常吉は、晩年、「今まで多くの人を傷つけ、殺したりしたことの罪を悔いて、善根を施すことに努め、方々の神社仏閣に寄進したり、日清、日露の両戦争に際して多額の軍資金を献納したり、故郷の平井村一帯、近在の生活の苦しい者に金品を恵んだりした」と常吉実談に述べられている。

地元で、常吉の自宅隣に住んでいた元小学校校長藤田氏の常吉晩年の頃の話が残っている。

親分さんは、背丈が5尺6寸ほどあり、スンナリした体つきで、若いころは好男子であった。近所の人もご隠居と呼んでいました。村人に会うと必ず道を譲り、「ご精が出ますな」と愛想よく声をかけた。
所用で豊橋に出かけて、人力車で帰る時でも、必ず村境で人力車を降り、歩いて家まで帰るのが常で、自宅の門前まで人力車を乗り付けることはしなかった。不思議に思い、尋ねたところ、「村の衆たちが一生懸命に働いているのに、無宿渡世であった自分が人力車で玄関まで乗りつけては相すまぬ。」との返事だった。

時折、修行中の渡世人が立ち寄ることがあっても、草鞋銭を渡したうえ、「渡世人は決して堅気のひとに嫌われるような行いをしてはいけない。」とよく諭しておりました。
ある時、初老の物乞いが幼い子供を連れて自宅の門口に立ったことがあった。親子はボロボロの衣服を着て、子供の頭は毛じらみでいっぱいだった。ご隠居は、見かねて、衣服を与え、庭先で湯を沸かし、子供の頭を洗髪してやったそうです。常吉親分はそんな慈悲深い親分でしたと語っている。

原田常吉が波乱万丈の生涯を閉じたのは、大正4年2月6日午前1時、享年84歳であった。
一般に博徒と言うと、「無頼の徒」のイメージが強いが、まれには常吉のごとく、本来の男気、または義気を有し、代償を求めず、弱者の味方となり、「弱きを助け、強きを挫く」いわゆる「侠客」「任侠の徒」もいたということを明らかにしたかったのである。