兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

新島を島抜けした博徒・竹居安五郎という人

竹居安五郎とは、伊豆新島から島抜けに成功、地元甲州に帰還、黒駒勝蔵を子分にもつ武闘派博徒で、通称「吃安」の名で有名な博徒である。
 
博徒名)竹居安五郎 (通称)吃安  (本名)中村安五郎
(生没年)文化8年(1811年)~文久2年(1862年)  享年52歳
      石和代官所牢内で獄死
 
竹居安五郎は文化8年、甲州八代郡竹居村(現・山梨県笛吹市)の中村甚兵衛・やすの四男として生まれた。父親甚兵衛は名主も務め、竹居村の草分け的な存在で、村内の上位にランクする自作農であった。名主は代官所の下部組織として、地元の村内統治など、代官の警察権、統治権の一部を付与されていた。当時、甲州は、多数の無宿者、通り者が流れ込み、治安が悪化し、加え、代官所の警察力の低下で、支配統治も混乱していた。そのrため、地主の協力が必要であり、安五郎の父親も新しく新設された「郡中取締役」に任命されていた。

父親亡き後、長兄の甚兵衛が中村家を継いだ。兄も、父親同様「郡中取締役」として村内騒動解決に辣腕を振るったが、二人とも従順な小役人ではなかった。特に、兄の甚兵衛は、無宿者の子分を抱え、賭場を開くなど博徒の親分でもあった。弟の安五郎も39歳の時、度重なる博打喧嘩の罪で無宿となり、江戸送りとなる。それから2年後、嘉永4年(1851年)、安五郎は伊豆新島遠島が決定となる。安五郎40歳のときであった。

新島に到着し、島の生活にも慣れた嘉永5年(1852年)、安五郎は、流人仲間の丑五郎、貞蔵、角蔵の20歳台の若い3人の無宿人から島抜けの相談を受けた。最初は気乗りしなかったが、若者の意気込み負け、ほかに造酒蔵、源次郎、長吉の3人を加えた7人で、一年間入念に計画を練り、嘉永6年(1853年)島抜けを敢行する。

安五郎ら7人は6月8日の夜四つ時(午後10時)、名主の前田吉兵衛宅を襲撃し、家族一人を殺害、鉄砲を奪う。しかし、家族が騒いだため、鉄砲の弾まで奪うことはできなかった。襲撃時に傷を受けた名主はそれが原因で事件後死亡している。

その後急ぎ、腕利きの水主・市郎右衛門、喜兵衛の寝込みを急襲、村で最速の漁船を奪い、深夜、島を出発した。船は伊豆網代浦観音下屏風岩(現在の熱海市付近)に上陸、ほっとして海岸で流人たちが食事をしている間に、水主たちは船に飛び乗り逃走した。

7人は山中に隠れ、それぞれ別々に逃走した。安五郎は地元の博徒を頼りに、三島を経由して地元甲州へ帰還した。無事に帰還できたのは当時、黒船騒動で上陸地沼津藩役人も島抜け流人を捕縛する人員が不足していたためである。

地元に戻った安五郎は兄の甚兵衛と檜峯神社神主武藤外記の庇護の下、黒駒勝蔵ら子分を集め、昔の勢いを復活した。家康公を祭る神官武藤家は、関東取締役の管轄外で追手の手が及びにくかった。しかし、兄の甚兵衛が急逝したのち、幕府の追及の手が迫り、関東取締役も面目をかけてあらゆる手段を行使して、安五郎の居所をみつけ、ついに捕縛した。

捕縛された安五郎は石和代官所に留置された。その後、牢内で毒殺とも、拷問攻めで殺害されたとも言われている。それは黒駒勝蔵らの子分たちが神官武藤家の支持の下、安五郎を奪い返しに襲ってくることを恐れたためと言われている。

安五郎と一緒に島抜けした他の流人のその後の消息も明らかになっている。7人のうち、丑五郎、貞蔵、造酒蔵、源次郎の4人は、江戸で捕縛、市中引き回しのうえ、磔、獄門となった。しかし、残りの角蔵と長吉の二人の消息は不明である。

竹居安五郎の島抜けが成功したのはまさに幸運である。新島の流人帖を見ても、宝永2年(1705年)から慶応3年(1867年)までの162年間で、19件、78人の流人が島抜けに挑戦し、成功例はわずか3件にすぎない。

安五郎の成功は、潮の流れをよく知った腕の良い水主が居たこと、幕末黒船騒動で役人の人手不足で追及の手が及ばなかったことの二つが重なったこととによる。
しかし、島抜け、名主まで殺害した博徒が、その後10年近く捕縛されず、堂々と生きているのは当時の警察制度がいかに弱体化していたかを証明している。また、黒駒勝蔵が親分安五郎を匿った罪で各地逃亡せざるを得なくなったのはその後の話である。
 
写真は竹居安五郎の墓。(誠院諦悟日道居士)
笛吹市石和町唐柏の常在寺にある。墓石の側面には、「嘉永七巳年十二月五日 安五郎墓」と刻まれている。嘉永7年は安五郎が島抜けし、甲州に潜伏中でまだ生存している。この墓は追手の目をくらますために子分の石原市五郎が建てたと言われている。

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