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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

八丈島を島抜けした「博徒・佐原喜三郎」という人

黒船来航で騒がしい幕末の天保9年(1838年)7月に、鳥も通わぬと言われた八丈島から島抜けに成功した博徒がいた。総州下総国香取郡佐原村(千葉県香取市佐原)の豪農出身の博徒・佐原喜三郎である。

(本名) 本郷喜三郎 (博徒名) 佐原喜三郎
(生没年) 文化3年(1806年)~弘化2年(1845年) 
      死罪を免れ、江戸追放後、病死。  享年40歳

利根川沿いの佐原村は総州銚子からの米、醤油などの物資集積地として昔より活発な商業地域である。この地域は喜三郎死後も、浪曲、講談の「天保水滸伝」で著名な飯岡助五郎、笹川繁蔵、勢力富五郎などの博徒勢力を張った地域である。喜三郎の父・本郷武右衛門は関東随一と言われた下総十六島米の小作米600表の収入のある豪農である。喜三郎は本郷武右衛門のひとり息子として溺愛されて育った。そのため相応の教育も受け、一度も無宿人に落ちることもなく、いわばインテリ博徒といえる。

喜三郎は江戸の奉公修行終わった後、佐原に戻り、「伊呂波屋」という料理店を始める。この料理店を舞台に、賭場を開くなど、父親の財力を基盤に次第に博徒として売り出していく。喜三郎が31歳のころ、天保7年(1836年)、喧嘩の末、芝山の博徒・仁三郎を殺害する。喜三郎はこの事件で八丈島遠島刑が決定する。

八丈島に到着した喜三郎は、八丈島の村の一つ中之郷村に配属されたが、持ち前の知識で八丈島の歴史、地理、信仰など多岐にわたる記録を残している。それによれば、当時、八丈島の村は5か所あり、それぞれの人家数、流人数は下記のとおりである。
 村名        人家数(世帯)      流人数(人)
 三根村         200            70
 大賀郷村        400            90
 樫立村         150            70     
 中之郷村        350            70
 末吉村         280            70
 合計         1,380          370

喜三郎は八丈島流刑後、虚無僧・「朝日現象」と名乗り、島内の地理などの状況を把握する。それからからわずか2年後の天保9年(1838年)7月、喜三郎は島抜けを敢行する。その時、島抜けのメンバーにしたのは喜三郎ほか、茂八(36歳)、常太郎(24歳)、久兵衛(24歳)、吉原の遊女・花鳥(15歳)合計7名である。吉原の遊女・花鳥については以前に、このブログで記載した八丈島女流人お豊という人」にその経過が記載してある。

喜三郎らは三根村に隠してあった抜け船で、7月3日夜明けとともに出発、7月5日三宅島あたりで暴風に合い、その後漂流して、7月9日常陸鹿島浦荒野村に漂着した。7人は鹿島神社に参拝まで一緒であったが、その後、喜三郎は花鳥を連れて、故郷の佐原に無事戻った。遊女・花鳥が島抜けを望んだ理由は、死ぬ前に、江戸の両親に一目会いたいためであった。その約束を守るため、喜三郎はすぐに江戸に向かい、花鳥の両親との対面の約束を果たした。

関東取締出役は喜三郎らの島抜けを見逃せば面目丸つぶれである。必死の追捕の結果、島抜けから3カ月後、10月3日、江戸浜町で喜三郎と花鳥が一緒にいるとき、二人は捕縛される。花鳥は、伝馬町入牢から3年後、天保12年4月、江戸引き廻しうえ、うち首となった。その時、差し入れのお金を貯めて、花鳥は吉原遊女の全盛往年のごとく、金襴の打ち掛けに白綸子の袷、襦袢まで新調し、処刑の日に備えた。花鳥、29歳、白の綸子の袷を重ね着し、帯は唐繻子の幅広、水晶の念珠を手にした姿は、白一色の見事な死衣装であったという。

打ち首の役目は、将軍家御腰物試し御用の7代目山田浅右衛門であった。花鳥は、覚悟を決め、処刑場では微笑みさえ漏らしている。さすがの浅右衛門も躊躇したものの、ここでしくじっては家門の恥と気を取りなし、刀の峯に上半身を乗せて断首したという。明治になって、山岡鉄太郎が浅右衛門にこの真相を聞いた際、「拙者はこれまで数知れぬ首をはねたが、ただ二人だけはどうしても、いつものように斬ることができなかった。一人は兇賊稲葉小僧、一人はあの花鳥である。二人とも死に対して少しのわだかまりもない。全く心が生死の外にあるので、どうしても刀が下せなかった。そこへ行くと、安政の大獄頼三樹三郎等は、死を拒み、幕府を恨み、悲憤憤慨しているので、人間は怒っている者ほど斬りやすいものだ。」と語っている。

一方、喜三郎は花鳥斬首後も、足かけ8年牢獄暮らしののち、牢名主の功績により、死罪から永牢へ、ついには江戸10里四方追放と次々に減罪された。島抜けの重罪について死罪から助命への減罪は奇跡に近い。これには当時、米国船モリソン号浦賀来航、羽倉外記による伊豆七島巡視、蛮社の獄など、日本近海の国防問題が背景にあった。幕府上層部は、水野忠邦の天保改革の反動、八丈島付近の外洋の事情について、学問のあるインテリ博徒喜三郎の実体験による生の情報が欲しかったと思われる。

江戸追放後、喜三郎は長年の牢獄暮らしで、肉体はボロボロ、故郷佐原までの帰りの道中もままならない重態であった。やむなく江戸に残り、養生に努めるも、江戸追放発令からわずか1カ月後、弘化2年(1845年)6月3日、波乱に満ちた40歳の生涯を終える。島抜けの大罪人が畳の上で往生するとは、まさに奇跡というほかはない幸運な博徒であった。

blog.livedoor.jp

写真は佐原喜三郎の墓(香取市佐原町 法界寺内)

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