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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎という人

講談「天保水滸伝」で有名な総州下総国(現・千葉県)の博徒で、二足草鞋で関東取締出役道案内の飯岡助五郎と地元博徒の笹川繁蔵がいた。勢力富五郎は、この笹川繁蔵の子分である。親分の繁蔵が助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちのため、助五郎を狙って、関東取締出役と死闘を繰り広げ、最後に追い詰められ、28歳で自決した武闘派博徒である。その後、絵師歌川豊国が、「近世嘉永水滸伝」で、勢力富五郎の錦絵を描き、一躍、侠客博徒として人気が上がった。
 
博徒名)勢力富五郎  (本名)柴田佐助
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
      総州万歳村(現・千葉市旭市) 金毘羅山中に立てこもり自殺
 
勢力富五郎は、干潟八万石の万歳村(現・千葉県旭市)に生まれ、江戸大相撲力士を志願、雷権太夫入門、三段目まで昇格した。しかし、その後廃業、博徒の世界に入り、笹川繁蔵の子分となる。弘化4年(1847年)、親分繁蔵が、関東取締出役の手先飯岡助五郎の息子の堺屋与助に闇討ちされた後は、関東取締出役と対決、闘いを挑んでいく。
 
嘉永2年(1849年)12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことが決定した。ところが下総東部、利根川下流域では、無宿の博徒勢力富五郎とその子分が関東取締出役の追及を尻目に無法を尽くし、跋扈していた。この地域は江戸の後背地として、九十九里の干鰯と銚子の醤油の一大地場産業地であり、活気を帯びていた。そこに博徒らも入り込み、加えて、将軍鹿狩りもあり、治安維持は重大事であった。関東取締出役は面子にかけても、勢力富五郎捕縛をする必要があった。
 
関東取締出役は、関八州東海道からの応援も受け、道案内、岡っ引き500人以上を集合させ、富五郎捕縛に向かわせた。ところが、勢力富五郎は鉄砲などで武装しながら、一味の行方は知れず、捕縛は困難をきたした。この地域は、この騒動の翌年に脱獄囚高野長英も潜伏したことがあり、お尋ね者が身を隠す格好の地域であった。また、二足草鞋の飯岡助五郎と関東取締出役の裏での結託を知る地元の人々は、勢力富五郎に同情し、判官贔屓に傾いていた。そのため万歳村の名主・井上治右衛門等は勢力一派を密かに自宅に匿い、情報も筒抜けの状態であった。
 
業を煮やした関東取締出役上層部は、地域外の常州土浦藩の名主内田佐左衛門を道案内にスカウトし、勢力富五郎捕縛の切り札に投入する。内田佐左衛門は勢力一味が潜伏する一帯をしらみつぶしのローラー作戦で包囲網をじわじわ狭めていった。
 
本拠地の万歳村の隠れ家を出た勢力富五郎と子分たちは八重穂村を抜け、小南村金毘羅山の山頂に鉄砲を武器に立てこもる。このことは本家「水滸伝」の梁山泊になぞらえ、江戸の評判となった。しかし遂に、追い詰められた勢力富五郎に付き従うのは、子分の栄助一人となった。二人は関東取締出役のお縄にかかるのは真っ平と、自決を選ぶ。時に嘉永2年(1849年)4月28日、大捕物は52日に及んだ。
 
この騒動で清瀧村無宿佐吉ら9人、今郡村百姓四郎兵衛ら6人、合計15人が捕縛され、江戸送りとなった。そのときに押収した武器は、鉄砲10挺、鑓3筋、長刀2振り、種ケ嶋火縄銃、刀等となっている。幕府は、鉄砲を主体とした武器の質と量に驚きを隠せない。対抗する幕府の警察力は太刀、弓が中心で、鉄砲は火縄銃の範囲を出ない状態であった。
 
また、捕縛された者のうち、4人は無宿ではなく、人別帖に記載された百姓である。ごく一部とは言え、田作りの百姓が厳禁の鉄砲を保有し、勢力富五郎を支えていたという事実は重大である。それは貧民救済をした義侠勢力富五郎の人気をも示している。
 
写真は勢力富五郎の碑(千葉県東庄町 延命寺

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