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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

信州の博徒・間ノ川又五郎という人

歴史
信州長野は、昔から博徒関八州の追手からの逃亡する場所として知られている。国定忠治関八州取締から何回も信州へ逃れている。長野善光寺は全国から参拝者が来るので、博徒が身を隠すには便利なのだ。

間ノ川又五郎も上州生まれで、旅暮らしの結果、信州長野中野村に一家を構えた。幕末の博徒では清水次郎長、黒駒勝蔵、大前田英五郎、天保水滸伝の笹川繁蔵などが有名である。間ノ川又五郎もそれらと比しても遜色のない博徒である。その勢力範囲は、「善光寺平」一帯を中心に、東は関八州、西は美濃中山道、南は東海道、北は越後に及び、子分身内三千人と言われた大親分である。

博徒名)間ノ川又五郎
(本名) 佐山 忠輝
(生没年)文化12年(1815年)~明治8年(1875年)

幕末には、有名な赤報隊「相良総三」に対して、三百人の手勢を応援に出すほどの勢力を持っていた。官軍と幕府軍維新の戦いである飯山戦争では、混乱する地元の治安維持の任を受け持ち、駐留していた尾張藩の警護、兵糧調達の役目をした。戦いでは子分を連れて、尾張藩に従い、越後小千谷に出陣した。

間ノ川又五郎の生涯は波乱万丈である。博徒の常として、副業として「上総屋」という妓楼の経営者でもあった。維新後は、信州中野で起きた百姓一揆である中野騒動において、関係者捕縛の仕事を行い、その功が認められ、中野県庁、その後の長野県庁の正式職員となった。そして明治8年12月に61歳で生涯をとじた。

又五郎没後になるが、明治13年6月の清水一家と平井一家和解の手打ちの仲介の役目を務めたのもこの間ノ川一家で、又五郎の息子であった。間ノ川又五郎の本家である佐山家のお墓は現在、長野湯田中駅の一つ手前、山内町上条駅の近くの善応寺にある。

下記写真は間ノ川又五郎(佐山忠輝)の屋敷跡に建てられた記念碑である。

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