兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

次郎長より有名な博徒・森石松という人

森石松というと東映映画30石船の「寿司食いねえ」の中村錦之助を思い出す。片目でドモリのおっちょこちょいのやくざという印象である。清水一家では一番有名な子分である。しかしその実像は謎が多い。存在そのものが架空という人もいる。清水一家での活動期間は短いが、存在は間違いない。明治になって次郎長が監獄出所後の晩年、次郎長に面談した人が石松のことを聞いた時、次郎長は涙したと語っている。しかし、石松に関する資料は少なく、その実像は謎のままである。
 
博徒名) 森石松
(生没年) 生年月日不詳~万延元年(1860年)6月1日
       都田吉兵衛、常吉、梅吉、三兄弟により殺害され死亡
 
森石松は三州半原村堀切(現・愛知県新城市富岡)の百姓の子として生まれ、母が死亡後、自宅が火災となったため、父親は石松を連れて、遠州森町村(現・静岡県周智郡森町)に炭焼きの出稼ぎに移転した。
 
石松はその森町で地元博徒・森五郎と知り合い、博徒の道に入る。その後、上州に流れて、喧嘩で常五郎なる博徒を殺害したため、清水に逃亡、ここで次郎長の子分になったと言われている。石松は次郎長一家としては初期の子分である。大きな喧嘩は、安政6年(1859年)、次郎長、大政、石松、八五郎の4人で、知多大野・乙川で保下田久六を待ち伏せ、襲撃した抗争のみである。
 
次郎長は、保下田久六を斬った刀を四国金刀比羅宮に奉納代参の役目を石松に託した。無事奉納代参の役目を果たした帰途、近江草津博徒幸山鎌太郎親分に名古屋で客死した次郎長女房お蝶への香典金25両を託される。石松は遠州中郡の常吉を訪れたところで、長兄吉兵衛、梅吉、常吉の三兄弟に25両を狙われ、博打に誘われ、だまし討ちにあう。
 
長兄吉兵衛は次郎長の久六殺害を怨みとする丹波屋伝兵衛に繋がる博徒である。石松は久六を殺害した4人のひとりである。石松を殺して次郎長に一矢報いようと、久六の子分浜松在布橋の兼吉に連絡して、石松を待ち伏せ、惨殺する。吉兵衛は石松の首を斬りおとし、兼吉に久六親分の墓に供えるように言ったところ、「切歯針張目」怨みを含んで今にも食ってかかりそうな石松の形相に恐れを生じ、石松の髪を断ってこれに代えたという。万延元年6月1日のことである。
 
石松の横死は博徒間の力関係を微妙に変えた。次郎長の盟友江尻の大熊は吉兵衛との兄弟分の杯を返上した。思わぬ反発に吉兵衛は関東の博徒巳之助を介して石塔料50両で手を打ってほしいと持ち掛けた。しかし、次郎長は、俺を子分の命を金で売る親分にするつもりかと烈火のごとく怒って巳之助を追い返した。
 
次郎長一家の吉兵衛追及が強まる中、吉兵衛は大場久八の子分の武闘派の赤鬼の金平に窮状を訴えた。9月16日の夜、金平・吉兵衛連合軍は先手を打って、次郎長の本拠地を襲撃する。当日、次郎長は病気で実父宅で療養中で、本宅はもぬけのカラ、策略と勘違いした吉兵衛らは引き揚げた。その後、吉兵衛は、次郎長一家が河豚にあたり、戦力が低下した噂を聞き、再度次郎長襲撃のため江尻宿に子分9人で集結した。事前に察知した次郎長は逆に大政、小政ら7人で酒盛りの吉兵衛を逆襲して殺害、両腕を切り取り、石松の墓に供えた。これが東海遊侠伝が語る石松仇討ちの顛末である。
 
石松の墓は、静岡県周智郡森町にある大洞院の墓が有名である。しかし、もう一つ石松の生家(愛知県新城市富岡)の近くの墓もある。石松が斬殺されたとき、石松の弟が密かに石松の首を持ち帰り、ここに埋めたと言われている。墓は刻字もなく、石が置かれているだけである。
 
(参考) 東三河を歩こう 石松の墓
(参考) 東三河を歩こう 石松の生家跡
 
写真は石松の墓 愛知県新城市富岡 洞雲寺近くにある。

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