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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

賊軍旧幕兵士戦死者を埋葬した博徒たち

明治維新で賊軍幕府側戦死者の遺体収容の行動を取った博徒は少なくとも4人いた。
 
  中でも最も有名なのが威臨丸の清水次郎長である。新政府に反旗を翻した旧幕府海軍榎本艦隊威臨丸が台風に遭遇、破損して駿府藩の外港清水に緊急避難した。艦長小林文次郎は駿府藩に恭順の意を表し、兵士と武器を陸揚げし、停泊中の艦内は副長春山弁蔵、弟鉱平兄弟以下少数の水夫が残っていた。明治元年(1868年)9月18日、そこに新政府軍の富士丸、飛龍、武蔵の三艦が来航し攻撃、春山兄弟以下20余名が殺害され、清水港に投げ捨てられた。
 
次郎長は、夜に紛れて港内をさらい、春山兄弟ら7死体を収容して、新開地向島の古松の下に埋葬した。これが後に山岡鉄舟が揮毫した有名な壮士墓である。この顛末は、東海遊侠伝の著者・天田愚庵自身が戊辰戦争で敗残した経歴から次郎長の侠客の義挙として誇り高く語られている。
 
  二番目の博徒が鳥羽伏見の戦いにおける京都の会津小鉄である。威臨丸事件の半年前、慶応4年(1968年)正月3日に勃発した鳥羽・伏見戦は、幕府歩兵・会津藩兵・新選組等1万5千人の勢力が、三分の一に満たない薩長軍に大敗を喫して終わった。博徒会津小鉄もこの戦闘に人足・子分500名を動員したと言われる。小鉄は、この戦いで放置されたままにされていた幕府軍の戦死者の遺体を収容し丁重に埋葬した。
 
当初、小鉄から遺体収容を命じられた子分たちは、戦闘直後の殺気立った状況と勝手な収容が禁止されている中での作業に尻込みをした。小鉄一家代貸・いろはの幸太郎は、一計を図り、遺体収容に合わせて、道路に散乱した障害物除去、道路整備をすることで、官軍から咎められないようにしたのである。最終的に118体が黒谷光明院に運ばれ、山崎付近の100体が荼毘されて大阪一心寺に葬られた。
 
戦死者の遺品は、官軍占領の会津若松に小鉄が単身で乗り込み引き渡した。この帰途、小鉄は5歳の戦災孤児を連れてきた。この子が成長して、二代目・いろはの幸太郎に仕えた会津の弥吉となる。その後、旧会津藩出身者で組織された会津会により、昭和32年12月15日、黒谷西雲院で会津藩殉難者慰霊法要が実施された。
 
 三人目の博徒は、函館五稜郭戦争で放棄された賊軍兵士を埋葬、慰霊碑を建てた函館の博徒・柳川熊吉である。函館攻防戦の戦死者の数は不明だが、とにかく見せしめのために、旧幕諸隊の遺体は放置された。遺体に触れれば、旧幕脱走軍に内通する者とみなされ、官軍に処罰された。
 
この惨状に立ち上がったのが博徒・柳川熊吉である。熊吉は、遺体引受け先を昔よりの知り合いである日蓮宗実行寺住職・日隆の協力を取り付け、子分600人を動員して、遺体を一夜のうちに収容した。その後、市中の三つの寺に埋葬した。その数は、浄玄寺107名、実行寺94名、願乗寺54名、称名寺3名、合計258名と言われている。当時、旧幕軍の戦死者数は正確に把握されていない。一方、新政府軍の戦死者数は正確に把握されている。陸軍155名、海軍68名、合計223名である。
 
戦争終了後、旧幕軍の遺体処理の探索が行われ、熊吉は捕縛され、軍法会議によって死刑が宣告される。斬首刑実行の寸前に、薩摩出身の軍監田島圭蔵の介入により、熊吉はかろうじて罪一等を減じられた。熊吉の経歴は明らかではないが、江戸生まれで、嘉永年間に函館に移り住み、函館奉行の堀織部正が五稜郭築城の際、子分とともに工事に参加した言われている。
 
後年、旧幕軍戦死者796名が、函館八幡宮の東、函館山の中腹に合祀され、7回忌の時に墓碑「碧血碑」が建てられた。熊吉は、晩年、この墓碑「碧血碑」の整備管理して暮らし、大正2年(1913年)12月7日、88歳で死去、墓は実行寺にある。戒名・典松院性真日樹居士である。
 
 四人目の博徒は江戸の三河屋幸三郎である。幸三郎は八丈島流人の子である。父親の与兵衛がが赦免され、江戸に戻ったのちに、父親に引き取られ、江戸で丁稚奉公をしていた。しかし、継母と会わず、家出して博徒になった。その後、博徒の一方で、人足宿と雑貨商も営業していたらしい。
 
慶応4年(1868年)5月15日、新政府軍大村益次郎指揮により、上野彰義隊に対する総攻撃が開始された。彰義隊は一日にて総崩れし敗走する。上野の山には彰義隊の戦死者が累々と放置され、暑さと雨により腐りだし、悲惨を極めていた。
 
この惨状を見かねたのが、神田旅籠町の人足宿「三幸」こと三河屋幸三郎という博徒である。幸三郎は、三ノ輪の円通寺住職・仏麿と相談し、隊士の遺体を収容して、すべて埋葬処理した。そのとき「死んだら仏だ。敵も味方もねえ。」の啖呵を切ったという。次郎長と同じである。しかし、次郎長が収容したのはわずか7名に対して、幸三郎の収容遺体は183体、しかもその遺体は、一寸四角くらいにバラバラに斬ってあったりして、悲惨極まるものであった。そのとき、幸三郎は40歳近く、男盛りの侠客であった。
 
幸三郎は、もともと吃音の障害があり、小柄で風采はあまり上がらなかったが、人望が厚く、明治25年(1892年)1月24日、肺炎にかかり、67歳で死去した。会葬者は数千人に及んだという。戒名は良忠院賢明義雄居士である。