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兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

悲劇の博徒・笹川繁蔵という人

「利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」講談、映画で有名な大利根月夜の舞台であり、天保水滸伝として、笹川繁蔵、用心棒・平田深喜(別名・平手造酒)と飯岡助五郎との大利根川の決闘は良く知られている。

笹川繁蔵の生家岩瀬家は、須賀山村の東南にある羽斗村(現・千葉県香取郡東庄町)で代々醤油と酢を醸造した旧家で、地元の富豪である。繁蔵は岩瀬家七左衛門の三男として生まれた。母親は地元で有名な美人で、繁蔵も色白の美男子であった。若い頃から力が強く、相撲好きで一時、江戸の千賀ノ浦部屋に入門した。

1年余りで故郷に戻り、常州芝宿の親分文吉の賭場に出入りし、博徒渡世に入る。繁蔵は、もともと家に金があり、度胸、金離れ良く、次第に子分も増え、親分の文吉の跡目を譲り受けた。

博徒名) 笹川繁蔵   (本名) 岩瀬繁蔵
(生没年) 文化7年(1810年)~弘化4年(1847年) 享年38歳
       飯岡助五郎子分3人によりビャク橋で闇討ち殺害。

(通称) 平手造酒     (本名) 平田深喜
(生没年) 生年不詳 ~天保15年(1844年) 享年31歳前後
       繁蔵、助五郎の大利根河原の抗争で闘死。

当初、笹川繁蔵と飯岡助五郎は友好関係にあった。二人の年齢が18歳も違い、繁蔵は、「飯岡のとっさん」と助五郎に従い、助五郎の妾の子堺屋与助の妻は繁蔵の紹介によるもので、裕福な繁蔵は二足草鞋の助五郎に何度も資金の融通をしていた。しかし、縄張りを拡大する繁蔵に危機感を持った助五郎は関東取締出役道案内の役目を利用して、繁蔵襲撃を計画した。

事前に計画を察知した繁蔵は毎晩、朝まで待機して、襲撃に備えた。天保15年8月6日早朝、飯岡一家は船三艘に約50人、陸路20人、合計70人で笹川を襲撃した。一方、事前準備万端の繁蔵側は人数では半分に満たないが、一気に反撃した。繁蔵の反撃の激しさで、助五郎側は4人の死者を出し、その死者を置き去りにしたまま、船で逃走せざるを得なかった。

一方、繁蔵側の死者は用心棒の平田深喜ひとりだけである。平田は紀州藩または仙台藩の元藩士と言われ、下総郡香取の鈴木何某との名前の道場に居候して、繁蔵と知り合い、繁蔵の用心棒として7年を過ごした。平田は江戸千葉道場の俊英と言われるが、それほど腕の立つ剣士ではなかったようだ。約2時間程の襲撃が終了した時はまだ息があり、翌日7日午前零時に絶命した。平田は、頭に十文字に切り傷、刺し傷3か所、右肩、左肩、腕に各2か所、わき腹、ひざ等、全部で11か所に切り傷、刺し傷があった。

襲撃後、繁蔵は役人の追手を避けるため、奥州に逃亡の旅に出る。それから2年後にひそかに笹川に戻った。飯岡助五郎の子、堺屋与助は隠密裏に繁蔵を動きを探り、弘化4年(1847年)7月の夜、与助ら3人によって、笹川のビャク橋のたもとで闇討ちで殺害される。二、三日後首のない死体が利根川から発見された。この暗殺が助五郎の指示によるものか、子分の独断によるものかはっきりしない。しかし、助五郎は繁蔵の首を、自分の菩提寺光台寺にひそかに葬むり、わざと戒名も付けず、土饅頭の上に石を一つ置いた。助五郎はさすがに良心に責めがあったのか、「俺が死んだら、この首塚の傍へ埋めろ」と言ったという。

繁蔵の愛妾のお豊は絶世の美人と言われ、繁蔵の死後、まだ若く、子分の羽斗の勇吉に身を任せた。そのため、勇吉は一家から爪はじきにされ、二人は笹川を脱して、江戸住まいをした。勇吉は、江戸でも身辺が危なくなり、お豊を捨てて大坂に高飛びの途中、沼津で目明しに捕縛された。勇吉はその後嘉永2年、江戸小塚ツ原で断首されたという。勇吉に捨てられたお豊は、故郷を忘れ難く笹川に戻り、繁蔵の身内がほとんど居なくなってからビャク橋のたもとに、繁蔵のために高さ3尺ほどの石碑を建てたという。

写真は笹川繁蔵の碑 千葉県香取郡東庄町笹川 延命寺にある。

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