兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

土佐藩御用達の火消し・相模屋政五郎という人

相模屋政五郎という侠客を知っている人は少ない。博徒ファン仲間でもかなりメジャーな人物である。別名「江戸の相政」ともいう。「相政」にはもう一人、佐渡へ流罪となった渡世人の面倒を見た博徒の親分「佐渡相ノ川の政五郎」がいる。そのため「相模屋政五郎」は「江戸の相政」と呼ばれていた。

政五郎は博徒でなく、本業は口入屋で、新門辰五郎同様、江戸の火消しである。土佐藩主山内豊熙(山内容堂の2代前の藩主)の時、土佐藩の火消し頭は神田白壁町の仙台屋与五郎であったが、あまり人気がなかった。そのため、江戸屋敷の留守居役が町奉行の遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)に相談、10名ほどの名を挙げ、この中から選んだらよいと言われ、その中から相模屋政五郎を選んだ。

この時、弘化3年(1846年)、政五郎は36歳、男盛りである。政五郎は、京橋の口入稼業の元締め相模屋幸右衛門の娘、お照に惚れられて、実家の口入屋大和屋の二男から相模屋に養子になったほどのいい男だった。

(侠客名) 相模屋政五郎  (改名) 山中政次郎(山内容堂から山中姓を貰う)
(生没年) 文化4年(1807年)~明治19年(1886年
       東京新富町で死去 享年80歳

政五郎は左の手の小指がなかった。天保4年(1838年)政五郎31歳のとき、大奥の役を勤める松平筑後守という人がいた。この人の子息に常盤橋の屋敷に呼ばれ、酒の盃を無理強いされ、宴会のもつれで、小指を斬りおとした。「あっしは芸人じゃアありやせん。人入れ稼業でござんす。」と火の出るような啖呵を切って、血だらけのままの小指を盃に入れ、それへ酒をついで返杯した名残である。晩年に、子分が喧嘩などすると、小指を見せて、「短気は損気という。俺はこの小指がないため、どれほど不自由したか知れない。」と言い聞かせたという。

元治元年からの京大阪江戸の騒ぎの後、大阪で慶喜公に置き去りにされた幕府歩兵隊が江戸に戻り、解散した。歩兵隊の中には全国から集まったならず者も含まれていた。この歩兵が江戸で辻斬り、夜盗に及ぶ者もいた。吉原で暴れ、逆に若い者に返り討ちに遭う者もいた。これを見た政五郎は、「元公儀歩兵の方で、江戸から旅に出られる方には草鞋銭を差し上げる」と伝言して、誰彼の差別なく、一人に2分づつ渡し、約600両の大金を配った。

東京の野方町江古田に「江古田の勘之」という古い渡世人がいる。この渡世人が晩年、草鞋をはいて来る相政身内の若い者の話をしている。「草鞋をはくのは渡世人の修業だから、愚にもつかない三ん下も来るが、相政の身内で、これは屑だなという若い者はひとりも来なかった。身なりもしゃんとしており、仁義などもこれぽっちの隙も無かった。」と褒めていた。

明治5年(1872年)山内容堂が46歳で病死する前年に、容堂が柳橋の名妓「お愛」を落籍するときには、その交渉を政五郎が行った。旦那は山内容堂、口を利くのが東京随一の相政だから、お愛の両親は二つ返事で承知した。だが、話がまとまってみると、少なくとも千両と踏んでいたお愛の引出物として容堂から出たのは、たったの二百両、当時の正金で150円足らずと、名槍一筋だったので両親はびっくりした。「明治の今となっては、槍はすりこぎと同じでがす」と言ってべそをかいたという。お愛は容堂死亡後、落ちぶれて、日蓮宗の行者の女房となった。

山内容堂死亡のお通夜の席で、政五郎が殉死しようとした時、板垣退助が、「おやじ、御隠居の恩を受けたのは貴様一人ではない。みんなが貴様のように追い腹を切ったらあとはどうなる。あとはどうなってもいいと言うなら、俺がここで見ていてやる。見事に腹を切れ」と怒鳴ったので殉死を果たさなかったのは有名な話である。