兵藤恵昭の blog

団塊世代のおっさんです。思いついたことを勝手に書いています。

死出の旅の往来手形・勘助、草津の旅

高橋敏氏は、著書「江戸の平和力」で、江戸時代の行き倒れ死亡者に対する対応を評価し、江戸時代は予想以上の安心社会であると述べている。内容は、江戸時代の草津温泉療養の旅に出た庶民の旅先での病死の顛末である。

弘化4年(1847年)7月22日、豆州君沢郡長浜村(現・沼津市)の「勘助」が草津温泉六兵衛の宿で病死した。勘助の草津への旅は、温泉三昧の湯冶の旅でなく、らい病(ハンセン病)にかかり、大野村宇左衛門に付き添われ、2月3日出立、13日に草津の湯に到着、草津を死に場所と覚悟した死出の旅だった。

草津の湯に入湯2ヶ月後、宇左衛門は、勘助を宿主の六兵衛に託して、帰村した。帰るに際して、勘助の最後は親類縁者承知しており、旦那寺発行の往来手形を持参しているので、死後の国元への通知は不要であり、往来手形規程により、草津の作法による簡便な処置をお願いしたいと言い残した。

勘助は、宇左衛門が帰村して、3ヶ月後に死亡した。葬儀費用は、勘助からの預かり金1両2分と途中帰村した宇左衛門が託した1両2分の合わせて3両で賄われた。勘助の故郷への死骸の運送も検討されたが、宇左衛門の申し出もあり、死後の扱いは草津温泉光泉寺が請け負い、この光泉寺に埋葬された。

勘助の出身地の長浜村は伊豆の内浦湾中央に位置する漁村である。勘助は当時24歳、人別帳によれば、家族は、兄嘉七(39歳)、妻こう(31歳)、姪りん(3歳)と母きみ(57歳)、姉ちま(33歳)の6人家族である。家族縁者は勘助の行く末を案じて、相談のうえ、草津入湯の旅を決めた。そして、路銀を出し合い、草津へ向かわせた。勘助死亡の時、勘助が所持していた3両は大金である。

勘助の旦那寺安養寺発行の往来一札には、家族の思いを込めて筆で次のように書かれていた。「途中病気か、病死したときは、どうか現地のお慈悲ある作法で処置してください、こちらへの連絡には及びません、ついでがあったときでもお知らせください。」

草津温泉で病死した勘助は、幕府法令を尊守して手厚く葬られ、往来一札を発行した国元の長浜村の安養寺に通知された。その結果、家族親類縁者によって地元でも法要が営まれている。

現在、孤独死が問題となっているが、江戸時代、行き倒れ死亡者は、それなりの処置がされ、遠方の縁者に対しても連絡通知され、相応の事後処理をする安心社会のシステムが構築されていたのである。