兵藤恵昭の blog

団塊世代の社会保険労務士。趣味は温泉と博徒の墓巡り。思いついたことを書いています。

白波五人男の盗賊・日本左衛門という人

白波五人男『問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放たれ、身の生業も白波の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊の噂、高札に・・・』と大見えを切った大泥棒「日本駄衛門」が有名である。この日本駄衛門は実在の盗賊「日本左衛門」がモデルである。
 
日本左衛門は尾張藩遠州地区の七里役(藩専用の飛脚で、7里を走り次に渡す飛脚、足軽)濱島富右衛門の子として生まれた。若い頃から放蕩を繰り返し、20歳のとき、親に勘当された。
 
23歳頃から盗人稼業に入り、200名ほどの盗賊団の頭目になり、近隣諸国を荒らし回った盗賊である。その被害は14件、2,622両余りと言われている。
 
容貌は、175cmほどの長身、鼻筋がとおり色白で、顔に5cmほどの切り傷があった。盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を手配して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃亡するという用心深さであった。
 
押し込むときは、手下50~60人を使い、提灯30帳を灯し、押し入った家族全員を縛り上げ、金の置き場所へ案内させ、強奪した。時には嫁や下女たちまで狼藉したとあり、かなり荒っぽい盗賊団であった。
 
日本左衛門本人は直接に手を下さず、時には金箱を砕いて包みから、難儀ある者に施したとも、盗みはすれど非道はせずと手下に説いたとも言われている。
 
(本名)  濱島 庄兵衛
(生没年) 享保4年(1719年)不詳~延享4年(1747年)3月11日
      盗賊で手配、京都町奉行に自首、獄門。享年29歳
 
延享3年(1746年)9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣された。これにより盗賊団の幹部数名は捕縛されたが、頭目の日本左衛門は逃亡した。
 
この騒動で、地元掛川藩城主の小笠原長恭は責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相楽藩の本多忠如も福島県の泉に移された。
 
日本左衛門は、伊勢国古市で自分の手配書が出回っている噂を聞き、さらに遠国の安芸国宮島まで逃亡を図る。しかし宮島でも自分の手配書を目にして、もう逃げ切れないと観念した。当時、手配書は親殺し、主殺しの重罪に限られ、盗賊としては日本初の手配書であった。
 
日本左衛門は延享4年(1747年)1月7日、京都町奉行永井丹波守尚方(大坂町奉行牧野信貞の説もある)に自首した。
 
大坂町奉行牧野に自首したとき、今日は休日だから明日来いと言われ、翌日、自首したとも言われている。捕縛後、江戸に送られ、北町奉行によって小伝馬町の牢に繫がれた。
 
刑罰は市中引き回しの上、獄門とされ、仲間の中村左膳(左膳は京都の公家に仕える武士であった。)6名とともに処刑された。刑は同年3月11日、遠州鈴ケ森(三本松)刑場で、その首は遠江国見附(現・磐田市付近)に晒された。
 
その首を愛人のお万が盗み出し、金谷宿、川会所跡の南にある宅円庵に葬ったと言われる。今も宅円庵には日本左衛門の首塚がある。その地には「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑が残っている。
 
日本左衛門が盗賊を働いたときは八代将軍吉宗の時代である。当時は享保の改革が進められ、庶民に倹約と重税が求められ、息苦しい生活が余儀なくされていた。そのため、表立って権力に逆らう日本左衛門が義賊として庶民に持て囃されたのであろう。
 辞世の句 「押し取りの人の心は重なりて、身に首縄かかる悲しさ」
 
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下の写真は磐田市内瑞雲山見性寺にある日本左衛門の墓。ここに処刑後に、首が盗まれた後の身体、衣服を埋めたと言われる。
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下の写真は島田市金谷の宅円庵にある首塚である。愛人お万が遠州見附から首を盗み、ここに埋めたと言われる。

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