兵藤恵昭の blog

団塊世代の特定社会保険労務士。博徒史、アウトロー中心に書いています。

博徒・合の川政五郎という人

合の川」とは、現在の群馬県邑楽郡板倉町と埼玉県加須市の境界を流れる利根川の流路の一つである。ただし、現在は廃川となっている。この付近は利根川の流路を利用して、銚子の海産物、醤油などを江戸に送る船運基地として物流、商業地として繁栄していた。
 
博徒名)合の川政五郎 (相の川、間の川とも書く)
(本名) 高瀬仙右衛門茂高
(生没年)天明8年(1788年)~ 万延元年(1861年
     12月25日死去、享年 73歳
 
この邑楽郡大久保村(現在の板倉町)出身の博徒で「合の川政五郎」がいた。政五郎はこの地域で廻船問屋を営む高瀬家の次男として生まれた。政五郎の兄は常蔵といい、高瀬家の八代目に当たるが、若いころから遊び好きで、女性と揉め事を起こし、女性から金銭強要されたことから、この女性を殺害してしまった。さらに被害者の女性の遺族から訴訟を提起され、訴訟が長期化した。最終的には常蔵は勝訴したが、訴訟費用がかさんで、高瀬家は破産同様となった。しかも当事者の常蔵は、責任を感じてか、高野山に上り、出家してしまった。
 
高瀬家の七代目である先代の平八は若死にしており、高瀬家には、幼い政五郎以外は女性ばかりとなった。仕方なく、政五郎は、先代平八の昔からの知人である近くの村の博徒・新八に預けられ、育てられるようになった。博徒・新八に育てられた政五郎は、15歳の頃から賭場に出入りし、大人相手に博奕をやるようになった。
 
政五郎はやがて博徒修行のため、旅に出る。東海道甲州、信州をめぐり、最終、越後の長岡に腰を落ち着けた。この頃は「越後の政五郎」と呼ばれ、一人前の博徒、親分になっていた。修行の旅の途中、政五郎はその度胸の良さと男意気で、各地にいろいろな伝説を残している。
 
その後、越後から信州善光寺門前町の権堂に移り、遊女を抱える旅籠「上総屋」を経営する主人になった。当時この辺りは、善光寺参りの人に紛れ、各地から追手から逃れた博徒が集まり、地元の者からもこれらのやくざ者の管理をする要請もあったためである。この当時、政五郎は40歳近くで、子分も2,000人余りを抱える上州出身の親分に成長していた。この頃、国定忠治が信州に逃亡した際、善光寺門前の合の川政五郎に世話になったとの話もあるが、時期的に合わず、信頼できない。
 
政五郎は、42歳になったとき、考えるところがあって、縄張りを弟分の嶋田亥伝次に譲った。そして堅気となって、故郷の邑楽郡大久保の生家に戻り、没落した高瀬家の再興を図る。
 
帰国後、政五郎は生家立て直しをして、八代目高瀬仙右衛門茂高を名乗る。文政11年には関東取締役出役の案内役を務めた。最後には、川俣組合40ケ村の大惣代をも務めるようになる。晩年は自分の無学を恥じて、日夜読書に励んだという。万延元年12月死去。73歳であった。墓は邑楽郡大久保本郷(現在の板倉町大高嶋)の清浄院にある。法名は受法院清徳翁居士。
 
政五郎と同じ邑楽郡板倉町出身の幕末の博徒で間ノ川又五郎がいます。彼は、政五郎より27歳年下で、政五郎と同様、信州に向かい、一家を構えています。
 
このブログに下記の記事もあります。よろしければ、閲覧ください。