兵藤恵昭の blog

団塊世代の特定社会保険労務士。博徒史、アウトロー中心に書いています。

脱獄囚・五寸釘寅吉という人

明治の頃、北海道最果ての監獄である樺戸監獄から何度も脱獄に成功した脱獄囚がいた。異名を五寸釘寅吉と呼ばれ、人並を外れた運動能力で数々の脱獄を成功させた。数々の強盗、放火、傷害事件を起こした無期囚で、本名を西川寅吉と言う。

(別名) 五寸釘寅吉
(本名) 西川寅吉
(生没年)安政元年(1854年)~昭和16年(1941年)
     三重県多気郡で死去。享年87歳

寅吉は、安政元年(1854年)、伊勢国多気郡御糸郷佐田村(現・三重県多気明和町)の被差別部落の貧農の四男として生まれた。複雑な家庭事情から21歳の時に傷害事件を起こし、2年の刑を受け、渡会監獄(現・三重県)に入所した。

刑期を終えて出所しても、兄の博奕仲間に引きずられ、強盗や傷害事件を繰り返し、横浜監獄、三重監獄に入所した。最初の脱獄はこの横浜監獄で、移送中に看守の目を盗んで逃走した。また地元の放火事件で入所した三重監獄でも、仲間とともに脱獄に成功している。

この後、脱獄犯として賭博をしながら逃亡、静岡県で博奕の揉め事にかかわり、警察に追われる身になった。この時偶然、盗みに入ろうとした質店で、警察に見つかり、2階から飛び降りたとき、工事中で散らばっていた五寸釘が打たれた板を踏み抜いた。しかしそのまま2里半(10キロ)を走り抜いたという。

五寸釘の傷を治している最中に、寅吉は再び御用となり、東京の小菅集治監に入れられた。この出来事が東京の新聞に載り、一躍「五寸釘の寅吉」として有名になった。その後、小菅集治監から北海道空知集治監(現・北海道三笠市)に送られた。この空知監獄でも、作業中に看守の目を盗み、脱獄に成功している。

空知監獄を脱獄した寅吉は、西川安太郎と名前を変えて、神奈川県で強盗を働いたところを捕まり、今度は北海道樺戸集治監に入れられた。樺戸監獄で、以前に空知監獄にいた看守に寅吉の正体を見破られた。雑居房から厳重な独居房へ移され、一番重い1貫目(3.75キロ)の鉄球が着けられた。

ここでも寅吉は脱獄に挑んだ。一度目は、堰堤補修工事作業中に看守を襲い、厚田村へ逃亡した。しかし5日目には捕まり、樺戸監獄に戻された。二度目は、さらに厳重な警戒の中、工事の外役から帰り、鉄球が着けられるすきを狙い、看守を蹴り上げ、気絶させて看守を房に閉じ込めた。廊下を走り抜き、外に出て、走りながら途中の水場で赤い囚人服を脱ぎ濡らした。

外に出た寅吉は、目の前の18尺(5.5m)の高塀に囚人服をたたきつけ、その吸着力で塀を乗り越えてしまった。さらに監獄の前の石狩川船着き場にある対岸へのケーブルを伝わって逃走した。人並み以上の体力と運動神経で、脱獄は不可能と言われた樺戸監獄の脱獄に成功したのである。

樺戸の脱獄の後、寅吉が現れたのは埼玉監獄である。この時も井上銀次郎という偽名を使い、強盗の罪で捕縛され、無期刑囚となっていた。その後、北海道の釧路監獄に送られた。釧路監獄の看守長は以前、空知監獄に勤め、寅吉をよく知っていた。しかし40歳を前に、寅吉の体力、気力も衰え、これ以降、寅吉もおとなしく刑に服すようになった。

9年後には網走監獄に移された。かつての神仏をも恐れぬ強盗無期囚から一変して、模範囚となっていた。大正13年の秋、寅吉は刑期を短縮され、自由の身となった。その時、寅吉はすでに72歳になっていた。

自由の身となった寅吉は、利にさとい興行師に誘われ、「五寸釘寅吉劇団」の一座を作り、全国を巡業した。しかし、最後には息子のいる故郷・三重に帰り、畳の上で人生87歳の大往生を遂げた。

 

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写真は北海道樺戸郡月形町にある「樺戸集治監」の本庁舎。玄関は多くの人が出入りしたのだろう。玄関の石がすり減っている。

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