兵藤恵昭の blog

団塊世代の特定社会保険労務士。博徒史、アウトロー中心に書いています。

函館の博徒・柳川熊吉という人

幕末、北海道の函館に柳川熊吉という博徒がいた。年齢は、有名な清水次郎長より5歳年下である。熊吉は、榎本武揚旧幕軍と薩長官軍との函館戦争で放棄された旧幕軍兵士の遺体を勝手に埋葬した罪で死罪の刑を受けた。

博徒名)柳川 熊吉
(生没年)文政8年(1825年)~大正2年(1913年)
     函館で死去。 享年89歳

柳川熊吉は、文政8年、江戸浅草で料理屋を営む野村鉄次郎の長男として生まれた。若いころ、当時浅草で売り出し中の新門辰五郎の配下となり、博徒稼業に入ったという。

31歳で人夫請負業をしていた時、函館奉行・堀織部正の五稜郭築城に伴う人夫供給のため、自ら人員を率いて安政3年に江戸から函館へ移った。その後、函館で料理店を営業しながら、子分600人を抱える博徒の親分になった。

明治2年(1869年)函館戦争が勃発し、敗北した賊軍・旧幕軍兵士の遺体が函館市内に放棄されていた。官軍は遺体に触れれば、旧幕脱走軍に内通する者として厳重に処罰した。

この惨状を見かねて、柳川熊吉は実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談して、子分とともに一夜のうちに放棄された遺体を収容した。そして市内4つの寺に埋葬した。その数は、浄玄寺107名、実行寺94名、願乗寺54名、称名寺3名、合計258名と言われている。

戦争終了後、旧幕軍の遺体処理の探索が行われ、熊吉は捕縛され、軍法会議で死罪が宣告される。熊吉は、取り調べに際し、子分とは盃を返し親分子分の関係を断ち、すべて一人で実行したと主張した。断首刑実行の寸前に、薩摩出身の軍監・田島圭蔵が介入「熊吉の行動は人倫にかなう。こういう男をむやみに殺してはならぬ。」との助言により、熊吉はかろうじて罪一等を減じられた。

後年、旧幕軍戦死者796名が、函館八幡宮の東、函館山中腹に合祀され、7回忌に墓碑「碧血碑」が建てられた。碧血とは「義に殉じた武人の血は、3年経てば地中で碧玉となる。」と言う中国の言い伝えによる。碑の裏側に「明治辰巳(1869年)に実にこのことあり、石を山上に立てて、以ってその志を表す。」と漢文で記載されている。具体的内容が記載されていないのは賊軍の影響があったためである。

熊吉は、碧血碑建立に尽力し、晩年は碧血碑の整備・管理しながら近くに居住し、大正2年、88歳で死去した。熊吉は死に際、家族に「今、何時だ?そうか、潮の引き時だな。人てぇいうものは潮の引くときに死ぬもんだ。じゃ、これで行くよ、あばよ。」と言って死んだという。

柳川家の墓は市内の実行寺にある。柳川熊吉の戒名は「典松院性真日樹居士」である。

下記に参考記事があります。よろしければ、閲覧ください。

shigeaki0303.hatenablog.com

写真は函館市内にある碧血碑

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写真は実行寺にある柳川家・柳川熊吉の墓

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